Cro-Mags「We Gotta Know」――成立、歌詞、録音、ライブ、映像を資料からたどる

はじめに

本稿では、Cro-Mags「We Gotta Know」について整理した1002点の独立情報をもとに、曲の成立、歌詞の背景、録音、ライブ、映像、権利関係、メンバーの証言を時系列と主題ごとにまとめる。資料にはメンバー本人のインタビュー、当時の雑誌・ファンジン、盤面クレジット、ライブ録音・映像、業界誌、放送記録、後年のインタビュー、各種メタデータを含む。

同じ内容を繰り返す証言は重複として数えない。本人の記憶や主張は、その人物の証言として記載する。第三者の評価は第三者の記述として扱う。資料同士が一致しない場合は双方を残す。文字起こしに疑義がある内容は確定情報として扱わない。ブートレグやトレーダー・リストは一次資料として扱っていない。

Cro-Mags live in 2010
Cro-Magsのライブ(2010年)。
Photo: Jaime Garcia Perez from Aviles, Asturias / Wikimedia Commons / CC BY 2.0

1. 「We Gotta Know」以前――ニューヨーク・ハードコアとCro-Magsの前史

Cro-Magsの成立過程は、後年のメンバー証言で細部が一致していない。ここでは、各人の生活環境、Bad BrainsやStimulatorsとの接点、初期編成、John Josephの加入までを、証言者を分けて並べる。

John Josephは、自然食品店で働き、ヨガや栄養の情報を学び、食と健康について講演を聞いていたと振り返っている。また、その後Bad Brainsの最初期の南部ツアーに同行し、ローディーをしながらBlood Clotを始め、毎晩前座を務めたという。さらに、ニューヨークの寺院を離れ、メンバーが住んでいたスクワットへ移ったと説明している。このほか、Eric Casanova離脱後、自分の加入にHarleyは賛成し、ParrisはRogerを望んでいたため、オーディションに近い形になったと語っている。Parris Mayhewは、Cro-Magsでは楽曲から日常のことまで衝突が多く、対立的で縄張り意識の強い関係になったと述べている。

Parris Mayhewは、Harleyと自分が最初に始めた時点ではCro-Magsという名前は固定されていなかったと主張している。また、Harleyには別の初期バンドがありDisco Smoothies名義で公演をしたが、そのバンドの曲はそのままCro-Magsになったわけではないと主張している。さらに、初期にはParrisがベース、Harleyがドラムを担当した時期もあり、メンバー交代を経て編成が固まったと記憶している。このほか、Johnのフロントマンとしての存在感が非常に適していたとし、自分はJohnを入れることに前向きだったと話している。John Josephは、12歳頃に飲酒と薬物を始めた理由として、里親家庭で経験した虐待の苦痛を麻痺させるためだったと説明している。

John Josephは、16歳頃に少年施設への収容を経験し、収容施設でも弱さを見せられなかったと振り返っている。また、子どもの頃から音楽が困難を乗り越える助けになったと説明している。Parris Mayhewは、Cro-Mags前史として、自分・Paul・Martinの3人で始めたバンドがあったという。また、PaulはHarleyともごく短期間演奏した後、離れたと語っている。さらに、その募集活動が、後にCro-Magsへつながる人物たちと出会うきっかけになったと説明している。

Harley Flanaganは、15歳頃、Lower East Sideの水道も電気もない放棄建物で一人で暮らしていたと述べている。また、『In the Beginning』表ジャケットは、Harleyが『The Age of Quarrel』に入る曲を書き始めた頃に住んでいたスクワットの写真だと本人が説明した。John Josephは、Bad Brainsとのつながりを使い、Cro-Magsが彼らの前座に入る機会を得たと記憶している。また、Cro-Magsのリハーサル費を払うため、冬に自転車メッセンジャーとして1日8〜9時間、30〜40マイルほど走っていたと話している。Parris Mayhewは、メンバー募集のフライヤーをRatcageの上の壁へ貼っていた時、以前のバンドの歌手PaulがHarley Flanaganと歩いて来て声をかけた、と振り返っている。

Lower East Side in 1984
1984年のLower East Side。Adam PurpleのUrban Gardenと周囲の建物。
Photo: Tony Yarus / Wikimedia Commons / CC BY-SA 3.0

Parrisは、そのフライヤー掲示時のHarleyとの遭遇を『基本的にはそこから始まった』という趣旨で、後のバンドにつながる出会いとして説明した。JohnはAlphabet CityのC〜D付近のスクワットで暮らし、Allen Street Boysに銃を向けられてスクワットを奪われた経験があるという。Harleyは、複数の参加者・編成を経た後、後に最初期Cro-Magsとして知られるラインナップが固まったと語っている。Parrisは、多数のメンバー交代を経て、自分・Mackie Jayson・Harley Flanagan・John Josephの編成でリハーサルする段階に至ったと述べている。また、Paulが自分の演奏を強く推薦したことが、HarleyがParrisの演奏を聴こうとするきっかけになったと記憶している。

Harleyは『The Age of Quarrel』期、Cro-Magsがニューヨーク以外でも大きな動員を得るようになっていたと話している。また、将来Cro-Magsへ関わる人々とStimulators在籍中から接点があったと振り返っている。さらに、Parris Mayhewについて、Stimulatorsのファンとしてその周辺にいたという。このほか、Stimulators周辺にいた人々の小さな集まりから複数の編成を試しながらCro-Magsを形にしようとしていたと語っている。Johnは、1981年の最初期編成で数か月リハーサルした後、バンドがいったん解散したと述べている。

JohnはBad Brainsをこの音楽的系譜の『ゴッドファーザー』のような存在と位置づけ、Ian MacKayeやHenry Rollinsを含むD.C.周辺にも影響したという自身の見方を述べた。Harleyは、Stimulators時代にBad Brainsと頻繁に共演していたと記憶している。また、Stimulatorsで演奏していた期間を1979年頃から1980年頃、長くても1981年初頭頃までだったと話している。さらに、後にニューヨークのハードコア・バンドを始めた最初期世代の中に、10代前半の頃Stimulatorsを見ていた人々が多くいたという自身の認識を述べた。このほか、Bad Brainsが当時のニューヨーク・ハードコア周辺の話し方やラスタファリ文化への関心に強い影響を与えたという自身の見方を述べた。

Johnは、Cro-Magsの活動を1984年頃に再開した時期、焼けた建物で電気も水道もない状態で暮らしていたと振り返っている。また、その時期の冬に消火栓から水を取り、冷たい水をバケツに入れて身体を洗っていたという。Parrisは、この頃はまだ頻繁にリハーサルしておらず、おおむね週1回程度だったと語っている。また、Cro-Magsの曲作りが進んでいた時期に、Harley Flanagan、John Joseph、Doug Hollandが別バンドMode of Ignoranceを組んでいたと述べている。さらに、Mode of IgnoranceをCro-Magsとは別のバンドとして説明し、Cro-Magsの曲作りと並行して活動していた時期があったと記憶している。

Parrisは、Mode of IgnoranceについてHarleyが思い描いていたスキンヘッド・バンドを実現しようとした別企画だったという自身の見方を述べた。Harleyは、後にCro-Magsとなるメンバーたちと、自分がまだStimulatorsに在籍していた頃から知り合っていたと話している。また、Cro-Magsを形にしようとしていた時期、Stimulators周辺にいた人々からなる複数の異なる編成で演奏していたと述べている。さらに、初期のバンドが当初から『ハードコア』と呼ばれていたわけではなく、『ハードコア パンク』という呼称は後から使われるようになったと振り返っている。このほか、『ニューヨーク・ハードコア』という呼称も最初から存在したのではなく、後から定着した名称だと話している。

Johnは修道生活中も音楽への強い思いが残っており、それが再び音楽活動へ戻る理由になったと語っている。また、Cro-Magsへ戻った時期、飲酒などの酩酊につながる行動をやめたという。Parrisは、当時Eric Casanova本人にもその両親宅にも電話がなかったと語っている。また、Eric CasanovaがQueensのかなり遠い場所に住んでいたと述べている。さらに、Eric Casanovaの家には一度も行ったことがなかったと記憶している。

Parrisは、Stimulatorsが次第に活動を終えていく一方、Bad Brainsは時間とともにより大きな存在になったという認識を述べた。また、以前一緒に演奏していたPaulが作った2曲が、後にMurphy’s Lawの最初のアルバムへ収録されたと話している。さらに、PaulとHarley Flanaganが一緒に演奏したのはごく数回、主にアパートでの短い期間だったと振り返っている。HarleyはStimulators以前に、ヨーロッパでLittle Big Ballsというバンドに参加していたという。また、Little Big Ballsを、演奏技術は未熟だったが非常に騒々しく、徹底してパンクだったと語っている。

Harleyは、ニューヨークには1980年頃の時点ですでに複数のハードコア・バンドが存在していたという認識を述べた。また、記憶が正しければThe Mobは1980年までには活動していたと思うと述べた。さらに、1980〜81年頃のニューヨークの初期バンドとしてHeart AttackやUrban Wasteなどを挙げた。このほか、1970〜80年代のLower East Sideについて、薬物や売春などが身近にある非常に荒れた環境で、自分にとっては強い心的負担を伴う場所だったと述べている。加えて、1990年代までLower East Side周辺にいたが、自身の薬物問題から、このままでは死ぬと考えてその環境を離れたと記憶している。

Johnは米海軍在籍中、船内へQuaaludesや大麻などを持ち込み、ノーフォークでも薬物を売っていたと話している。Harleyは同じインタビューで、John Josephは菜食になってから約7年だという。また、酩酊を追いかけることを時間を浪費する行為と捉え、自分はそうしたものを避けるようにしていると話した。Mackieは1983〜84年頃、Dr. KnowやDarryl JeniferらとMe And Iというバンドで演奏していたと振り返っている。DougはKrautの仲間に、自分は新しい経験を積むために動く必要があると伝え、残るメンバーにはKrautの名前と曲を使って続けてほしいと話したという。

ParrisはHarleyと始めた最初期のバンド名の一つとして『The Bald Eagles』を挙げ、当時はまだCro-Magsという名前ではなかったと語っている。また、171 Avenue A付近でメンバー募集の貼り紙をしていた際、元バンド仲間Paul DordalからHarleyを紹介されたと述べている。DougはKrautの3曲入り4トラック・デモがMick Jonesへ渡り、Jonesが気に入ったことがThe Clash前座につながったと記憶している。Parrisは14〜15歳頃、地元の有力バンドから必要なメンバーを集めて自分のバンドを作ろうと考えていたと話している。また、先にHarleyが加わったことで当時の小さなシーン内で信用が生まれ、Mackieを引き入れやすくなったという見方を述べた。

Dougは1980年末頃にKrautを組もうとし、その時点ですでに曲を書き始めていたと振り返っている。HarleyはCro-Magsという実体のバンドがまだ存在しない段階から、ニューヨーク各地の壁やクラブなどに『Cro-Mags』と書いていたという。同資料は、Harleyが初期Cro-Mags候補として後にAntidoteを結成するLouie Riveraもオーディションしたとしている。Parrisは、自分が見たその別編成の曲は1曲も後のCro-Mags楽曲にはならなかったと主張した。また、上記の別編成にJohn Josephが一時期関わっていたと思うと述べ、それがJohnが自分を初期メンバーとする背景ではないかと推測した。

ParrisはMackie Jaysonとバンド以前からスケートボードを通じて知り合っており、当初はMackieがドラマーだと知らなかったと語っている。複数の後年資料はNYHCを扱った『Donahue』回を1986年10月27日放送として扱い、Cro-MagsのHarley Flanaganらの出演を記録している。


2. 「We Gotta Know」が問うもの――真実、自己認識、Kali Yuga

「We Gotta Know」の歌詞を扱う際には、John Joseph本人が説明した思想背景と、第三者による解釈を分ける必要がある。JohnのHare Krishna/ヴェーダ思想、Kali Yuga、自己認識、奉仕、規律に関する発言を中心に整理する。

John Josephの思想、食生活、トライアスロン、近年の活動

John Joseph with Cro-Mags in 2015
John Joseph、Cro-Magsの2015年Gwar B-Q出演時。
Photo: DixonJohnston / Wikimedia Commons / CC BY-SA 4.0

John JosephはHare Krishna/バクティ・ヨガの実践を長年続けていると話してきた。『The Age of Quarrel』という題名についても、ヴェーダ文献で争いと偽善の時代を示すKali Yugaとの関係を説明している。本稿の1002点の資料群には、クリシュナ意識、霊的自己、奉仕、アヒンサー(非暴力)、PMA、規律などについての本人発言が複数含まれている。

Hare Krishna people in Central Park New York in 1982
New York、Central ParkのHare Krishnaの人々、1982年。
Photo: Gerd Eichmann / Wikimedia Commons / CC BY-SA 4.0

食生活について、2013年の『Triathlete』取材でJohnは自分の食事を「オーガニックの自然な食品を中心とするプラントベース」と説明している。同記事では、肉や動物性食品、遺伝子組み換え食品、加工度の高い食品を避けるという本人の方針が紹介された。これはJohn自身が実践してきた食事法として記載する。2014年のForks Over Knivesの取材では、好む食事としてケール、キヌア、豆を挙げ、ツアー初期には米と豆を持ち運んで食事を確保していたと振り返っている。

2025年のPLANTSTRONG Podcastでは、JohnはプラントベースのIRONMANトライアスリートとして紹介され、Hare Krishna、奉仕、規律、PMAと食生活の関係が話題になった。同番組の公開文字起こしでは、Johnはアヒンサーを理由の一つとして動物を食べないことを説明している。番組側がAI文字起こしと明記しているため、本稿では逐語引用に使用せず、発言内容の所在を示す資料として扱う。

持久系競技について確認できる記録では、Johnは2007年のMarine Corps Marathonを4時間20分41秒で完走した。2012年のU.S. Ironman Championship in New York Cityは本人にとって最初の競技トライアスロンであり、13時間33分02秒で完走している。2013年の『Triathlete』記事には、当時のピーク時の一週間の練習として水泳12,000メートル、ラン50マイル、自転車400マイルと記録されている。これは2012年大会へ向けた当時の練習量であり、現在の練習量を示すものではない。

2017年にはIRONMAN World ChampionshipのKonaに出場した。『Triathlete』の大会前プロフィールには55歳、ニューヨーク在住、ゼッケン466とあり、Children’s Tumor Foundationのためにレースをすると本人が説明している。同プロフィールでは、レース中の補給としてヴィーガン対応の栄養製品、必要に応じたジェル、塩分補給を挙げている。Konaの結果データには14時間50分07秒の完走記録が残る。2025年のAmerican Legion系ポッドキャストでも、Johnはプラントベースの食生活を続けるトライアスリートとして紹介されている。

IRONMAN World Championship Kona cycling course map
Kailua-Konaで行われるIRONMAN World Championshipの自転車コース。
Photo: Flappiefh / Wikimedia Commons / CC BY-SA 4.0

IRONMAN完走回数には時期によって異なる紹介がある。2020年の番組紹介では12回、2023年の番組紹介では13回、2025年刊『Unf*ck Your Health』のBookBaby著者紹介では14回のIRONMAN経験者とされている。John Josephの公式サイトも2026年10月時点で14回のIRONMAN完走者と紹介している。本稿では、過去の回数は各時期の紹介文に記載された数字として扱う。

近年の活動では、『Destroying Monsters』が依存、回復、規律、PMAを扱う著書として本人の公式サイトと2024〜2025年のインタビューで紹介されている。2025年11月には『Unf*ck Your Health』がBookBabyから刊行された。本人の公式サイトでは、前半を健康・食生活に関する12章、後半を90以上のレシピで構成する本として案内している。公式サイトは2026年10月時点でJohnを著者、ライフコーチ、講演者として紹介し、個人コーチング、講演、ニューヨークのウォーキングツアーなども案内している。

後年の生活実践を1980年代の歌詞へ遡って当てはめることはしない。「We Gotta Know」については、当時の歌詞、1980年代のインタビュー、本人が後年に同曲を説明した発言を優先する。食事、トライアスロン、PMA、近年の著作は、John Josephがその後に語り、実践している内容として別の時系列で記載する。

この節の追加資料

思想と生活実践に関する本人証言

John Josephは、1987年、クリシュナ意識がCro-Magsの音楽にどう関わるか問われ『この世界では誰もが真実を探している』と発言している。また、1987年、究極の革命を物質世界から抜け出すこととして説明し、歌う一語一語を真実として信じていると発言している。さらに、1987年、クリシュナ意識を神への意識と奉仕の文脈で説明し、音楽の才能も神の奉仕に使えると発言している。このほか、1987年、『Age of Quarrel』はヴェーダ文献のKali Yugaに由来し、1stには路上の強硬な感覚もあり、その思想を歌詞へ可能な限り取り込んだと説明している。加えて、Hare Krishnaの修道生活を約2年経験し、サーダナ(修行)・瞑想・講義等の日課を送ったと説明している。

John Josephは、人種・性別等のラベルを超えて『霊的自己』と説明し、The Science of Self-Realizationに言及。また、プラントベースへ入った最初の理由は動物で、その後健康、地球環境へ関心が広がったと説明し、アヒンサー(非暴力)にも言及。さらに、PMAを説明する中で「毎日、自分で責任を引き受けなければならない」と発言している。このほか、規律が習慣を作り、習慣が日課を作り、その日課が自分自身を形づくるという考えを説明している。加えて、『The War of Art』を引き、「抵抗(Resistance)」は、やるべきだと分かっていることを妨げ、やめさせようとするものだと説明している。

John Josephは、Krishnaへの関わりがCro-Magsの音楽にどう影響するか聞かれ、その信念が音楽の激しさや伝えようとするものに関係すると説明している。また、『この世界では誰もが真実を探している』と述べ、クリシュナ意識との関係を真実の探求として説明。さらに、その反発を極限まで進めた『究極の革命』は物質世界から抜け出すことだと説明している。このほか、物質世界を刑務所にたとえ、刑務所内を快適にするだけでなく、そこから出ることを目指すという信仰上の考えを説明。加えて、自分は歌っている一語一語を感じている、それを真実だと強く信じているからだと発言している。

John Josephは、クリシュナ意識を神を意識すること、本来の意識状態へ戻ることとして説明。また、Cro-Magsのような大音量でエネルギッシュな音楽でも、持っている才能を神の奉仕に使えるという考えを説明。さらに、『Age of Quarrel』に対応するサンスクリット語をKali Yugaと説明し、自分たちがその時代に生きているという信仰を語った。このほか、ヴェーダ/Krishnaの考えを歌詞へ『できる限り』取り入れようとしていたと説明している。加えて、Cro-Mags成立以前にHarleyから『ソロ用の曲』として音源を聞かされ、そこに『Don’t Tread On Me』など歌詞未完成の曲があったと主張している。

John Josephは、temple時代に哲学を吸収し、Hawaiiとニューヨークで武道もトレーニングしていたと説明している。また、警察がスクワットへ踏み込んだ経験など、当時の生活体験が一部の歌詞の材料になったと説明している。さらに、Harleyとスクワットの屋上で話した時期にBhagavad Gitaを読み、Kali YugaやAge of Quarrelについて考えていたと説明している。Parris Mayhewは、JohnのKrishna思想がバンドへ影響していくことを当初想像しておらず、後にバンド内の権力争いの一因になったという自分の見方を説明。John Josephは、14歳頃の1976年ニューヨークでは弱さを見せれば生き延びられないと感じ、暴力的な路上生活へつながったと説明している。

John Josephは、1981年に肉をやめ、自然食品店で働き始めたと説明している。また、生き残ったことを当然と思わず、毎日改善し、他者への奉仕や他者支援を行うことが人生の主要なものだと説明している。さらに、Prabhupadaから学んだ考えとして、自分を身体の中にある霊的自己と捉えていると説明している。このほか、人種、性的指向、性別などの身体的属性を超えて魂を霊的自己と捉える自身の理解を説明している。加えて、Prabhupadaの『The Science of Self-Realization』と「物質的な問題への霊的な解決」という考えに言及している。

John Josephは、Steven Pressfield『The War of Art』に触れ、Resistanceを『やるべきと分かっていること』を妨げ、やめさせようとするものとして説明。また、プラントベースに入った最初の理由は動物で、その後健康、地球環境へ関心が広がったと説明している。さらに、『規律が習慣を作り、習慣が日課を作り、その日課が自分自身を形作る』と説明している。このほか、依存状態時代も習慣/日課が薬物や酒を得ること中心に組まれていたと説明し、規律の向かう先の重要性を話した。加えて、過去には母親や経験のせいにしていたことを認めたうえで、「毎日、自分で責任を引き受けなければならない」と説明している。

John Josephは、PMAと責任の実践として時間管理と規則的な生活を重視し、瞑想、読書、トレーニングなどの日課を説明している。HarleyはEric、John、自分の3人はいずれも路上生活や同じスクワット、同種の状況を経験していたと述べた。Harley Flanaganは、最初期の歌詞の多くは作り話ではなく、実際に経験していた状況から出たものだと説明する。また、当時の歌詞にはギャング、路上の喧嘩、薬物、売買、生存、自分が何者かを理解しようとすることが含まれていたと説明している。さらに、周囲の死や破壊を見たことから、生きる意味や諦めないための支えを探し、宗教や高次の力を含む精神的な道を探すようになったと述べている。

Harley Flanaganは、一時期クリシュナ意識に関わったが、現在はそれを信奉・布教していないと話している。HarleyはJohnと一緒に西側のKrishnaの施設へ食事を取りに行き、当初は教えより無料の食事が目的だったと述べている。Harley Flanaganは、Johnから説教や読書が終わって食事だけ受け取りやすい時間を教えてもらっていたと記憶している。また、最初は食事目的だったが、時間がたつにつれKrishnaの哲学そのものに関心を持つようになったと語っている。さらに、当初ハードコア・シーンではJohnのKrishnaへの傾倒が笑いの対象だったが、自分や友人も関わるようになり雰囲気が変化したと話している。

Harley Flanaganは、死や破壊がKrishnaへの接近につながり、その時期は自分に落ち着きを与えたと振り返っている。また、田舎のKrishnaコミュニティで早朝に起き、冷水シャワーと瞑想をした体験について、自分が初めて平穏な環境を感じた時だったと語っている。Johnは自分をKrishnaの信徒と表現し、身につけるTulsi beadsは自分の主人がKrishnaとPrabhupadaであることを思い出すためだという。また、Prabhupadaの『簡素な生活と高い思考』や、全ての生き物への慈悲、オーガニックな食の考えを自分のメッセージとして紹介した。John Josephは、『The Science of Self-Realization』に触れ、物質世界を生・死・病・老いから逃れられない場所として説明した。

John Josephは、身体と心、他の生物、自然現象から生じる3種類の苦しみというヴェーダ思想の分類を説明した。また、僧院生活で学んだヴェーダ哲学をバンドへ持ち込もうとしたと説明する。さらに、Prabhupadaの講義を聞き、信徒たちと話す中でKrishnaの道へ進む決断をしたという。このほか、午前2時に起きて約2時間ジャパ(マントラ唱名)を唱え、その後の朝の講義と武道を含む生活を送ったと説明している。加えて、その日課が自分を癒し、人生を変える体験だったと語っている。

John Josephは、当時は「ヴィーガン」という語より「Ital」という言い方をしていたと述べている。また、動物を食べるのをやめたことを、自分の変化の最初の一歩だったと述べている。さらに、肉をやめた時に自分の意識で何かが変わったと感じたと話している。このほか、食生活だけを最終目的にするのではなく、意識を変える過程の一段階と捉えていると語っている。加えて、霊的生活では人格そのものを失うのではなく、薬物・飲酒など自分が否定的と考える行動を手放すという理解を述べた。

John Josephは、Hare Krishnaのマントラを唱えることが自分を浄化し、不安のある物質世界から精神的な意識へ注意を移す助けになるという。また、Prabhupadaから、人は物質的な身体そのものではなく、身体の中にある霊的自己だという考えを学んだと説明している。さらに、魂そのものは黒人、白人、ゲイ、トランスジェンダー、女性、男性といった身体上の区分とは別の霊的自己だという自身の理解を語っている。『団結と平等な権利』についても、人を物質的な身体ではなく霊的自己として見ることが必要だという考えを述べた。John Josephは、寺院を離れた後、当時ほかのメンバーが暮らしていたスクワットへ移ったと記憶している。また、そのスクワットで警察がドアを破って入り、以前その部屋にいた殺人事件の容疑者を探していた出来事があり、自分が続けて引用した歌詞はその体験から出たと説明する。さらに、寺院から戻った直後、ヴェーダ思想を取り込みつつ、路上の感覚を残した歌詞にしたいとHarleyへ話したと話している。

Johnは、自著の中で、自分が曲全体の歌詞を書いた曲と、コーラスやヴァースだけを書いた曲を個別に列挙していると説明している。John Josephは、自分が書く内容を信じ、実際に生きた経験がなければ歌詞に情熱は乗らず、聴き手にも伝わるという考えをJohnは述べた。また、Cro-Magsが形成された時期、自分がニューヨークで経験していた怒りを音楽へ向けたと振り返っている。Harleyは『The Age of Quarrel』期、自身の怒りや敵意を作品で繰り返し表現し、それに観客から肯定的な反応が返ることで、その怒りがさらに強化されたという自己分析を述べた。Johnは、J.W. Leeが当時ローフードに関心を持っていたという。

Parrisは、John JosephがKrishnaの考えを周囲へ広め始めた時期、Eric Casanovaは早い段階で影響を受けた人物の一人だったと語っている。また、その時期に周囲の人々の首に数珠が見られるようになったことを、Krishnaの影響が広がっていった記憶として語った。Harleyは、Bad BrainsがRastafarianismへ傾倒したことが、当時のハードコア・シーンでは彼らをさらに異質で独特な存在にしていたという見方を述べた。また、守ってくれる人がいないと感じて育ったことで強い怒りを抱え、それが危険な環境で自分を守るための行動様式になったと述べている。さらに、その怒りによってスクワット生活や暴力的状況を生き延びることができた一方、それ自体がトラウマでもあったと話している。

Johnは、自分が抱えていた怒りや苦痛をCro-Magsの活動へ注ぎ込んだと後年説明した。Harleyは、人間の身体は食べる・眠る・交尾する・身を守ることだけのためではなく、人生の目的を考えるためにあるという考えを述べた。また、感覚に知性を従わせるのではなく、知性によって感覚を制御する必要があるという考えを述べた。さらに、草や蚊を含むあらゆる生き物に、この身体の中にある魂と同等の魂があるという考えを述べた。このほか、当時、自分が菜食になってから約5年になると答えた。

Harleyは、菜食を始めた当初の理由は体調を良くし、運動面でより良い状態になるためという身体的な動機だったと語っている。また、歌詞への影響として、自分たちが生きてきた生活、自分たちが現在送っている生活、そして聖典から学んだことを挙げた。さらに、当時、『Bhagavad-Gita』をほぼ毎日読んでいると答えた。このほか、自分たちの人生から得た気づきを音楽を通して他人と共有し、他人が同じ失敗を経験せずに学べるようにしたいという趣旨を話した。加えて、路上生活をしていた時期、Food for Lifeの食事が自分にとって食べるための重要な手段だったと述べている。

Harleyは、後にニューヨークのFood for Lifeの活動を手伝い、運営にも関わっていたという。Johnは、Cro-Mags初期の精神的な内容について、聴き手へ説教する形ではなく、曲の中へ分かりにくく織り込んで伝える方法を取ったという趣旨で説明している。Harleyは『The Age of Quarrel』が他人には懐かしさや喜びを与える一方、自分には当時の苦痛や絶望を思い出させる作品だと説明している。また、『Street Justice』の『振り返るな/自分の問題でなければ関わるな』という趣旨の一節を、Avenue AでのEric Casanovaの喧嘩と結びつけて説明した。さらに、『Street Justice』の『Overpower–Overcome』という表現が、カナダのパーティーで知人Brunoが発した言葉に由来すると記憶している。

Harleyは『Survival of the Streets』に、C-Squatで暮らしていた時期の記憶が含まれていると述べている。また、同曲の銃を向けられる内容を、殺人容疑者を捜す警察がC-Squatへ踏み込み、自分たちへ銃を向けた体験と結びつけて説明した。さらに、初期の複数曲に、他人から踏み込まれないため自分を守るという攻撃的な自己防衛の姿勢が共通しているという見方を述べた。このほか、初期歌詞の多くに、物質的なものはいずれ崩れるという精神的な考えが含まれていたと話している。加えて、『この時代が進むにつれ、さらに退廃していく』という趣旨の歌詞について、路上経験だけでなく『Bhagavad Gita』からも着想したと語っている。

Harleyは上記最初期編成でDave Hahnが、後にFloridaのCrucial TruthのドラマーLeoに交代したと話している。


3. Motörhead、Bad Brains、Rush、フュージョン――Cro-Magsの音楽的語彙

Cro-Magsの音楽的背景について、メンバーはBad Brains、Motörhead、Rush、Sex Pistols、フュージョンなど複数の影響源を挙げている。個々の発言が示す範囲に限定して記載する。

John Josephは、1980年〜1981年初頭の初期Cro-Magsについて、Harley Flanaganがベース、Johnがボーカル、Dave Hahnがドラム、Dave Steinがギターだったと説明している。また、前年のMotörheadツアーについて、良い経験で多くを学び、大きな知名度向上になったと説明している。さらに、MotörheadはCro-Magsの作曲に大きな影響だったと発言している。Harley Flanaganは、Cro-Magsの最初の大きな転機の一つがMotörheadとのツアーだったと説明している。John Josephは、1976年にBlack Sabbath、AC/DC、Ted Nugentなどのコンサートへ行き、1977年からパンク・クラブへ通い、Sex Pistols、The Damned、Ramones、Dead Boysのエネルギーに惹かれたと振り返っている。

Parris Mayhewは、15〜16歳頃の作曲時にMotörheadやSex Pistolsなどから影響を受けていたという。Harley Flanaganは、初期NYHCの多くが楽器を始めたばかりだった中、自分はすでに数年間演奏していたという。John Josephは、H.R.が自分に最初にマイクを持たせた人物だったと語っている。また、Bad Brainsの制作現場から、報酬や名声より演奏そのものへ没頭する姿勢を見たと述べている。Harleyは、ドラムからベースへ移り、その後さらにボーカルを担当するようになったと説明する。

Bad Brains at the 9:30 Club in Washington DC in 1983
Bad Brains、Washington D.C.の9:30 Club、1983年。
Photo: Malco23 / Wikimedia Commons / CC BY-SA 3.0

Parrisは、Bad Brainsを初めて聴く以前から、Motörheadのような曲を書くことを意識的に試みていたと説明している。また、Bad Brainsを好きではあったものの、自分のその初期作曲における直接の影響源としては捉えていないと述べている。HarleyはGBHやUK Subsなどについて、好きではあったが同時代の仲間に近く、そこから作風を借りていたわけではないと話している。また、その時期の直接的な影響源としてDischarge『Hear Nothing See Nothing Say Nothing』を挙げた。さらに、Parris Mayhewについて、子どもの頃からギターを弾いており、初期から優れたギタリストだったと評価した。

Parrisは、自分が『ヘヴィメタル』と呼べる音楽として最初に記憶している作品がJudas Priestの『Unleashed in the East』だったと記憶している。また、『Unleashed in the East』が『The Age of Quarrel』の多くの曲を書くうえで大きな影響を与えたと語っている。さらに、そのJudas Priest曲でのギターの弾き方と二本のギターの音が自分に影響したという。Harleyは、自分がドラムからベースへ移った後、ParrisがMackie Jaysonを誘うことを提案したと話している。また、VenomのCronosとMotörheadのLemmyを、自分のベース演奏における大きな影響源として挙げた。

Harleyは、文字起こし上『Rainey from Distro』と認識された人物を、自分の演奏への大きな影響源として挙げた。また、Bad BrainsのDarryl Jeniferを、自分のベース演奏における最大級の影響源の一人として挙げた。さらに、子どもの頃からDarryl Jeniferの演奏を見て育ったと振り返っている。このほか、ドラムからベースへ移った時期にDarryl Jeniferがニューヨークに住んでおり、自分にとってベースの師のような存在だったと説明する。加えて、すべての音楽家は根本的にはドラマー的感覚を持ち、ドラムが音楽の根にあるという自身の考えを述べた。

Harleyは、第1世代のハードコアには先行するハードコア・バンドという手本がなかったため、各自がそれ以前の音楽的影響を持ち込んだという見方を述べた。また、当時、主にパンクを聴きつつ、Bad Brains、Circle Jerks、Black Flagなど新しく現れていたバンドも聴いていたという。Johnは、Bad BrainsのH.R.が自分を面倒見てくれ、音楽面でも教えてくれたと語っている。また、当初ドラムをやりたかったが、H.R.から『エネルギーがありすぎてドラムの後ろに収まるタイプではない、歌うべきだ』という趣旨の助言を受けたと述べている。さらに、H.R.に加えてJ.W. Leeからも多くを教わったと記憶している。

Johnは『Bad BrainsがいなければCro-Magsはなかった』という趣旨で、自分にとってのBad Brainsの影響を評価した。また、Harley FlanaganにBlack Sabbathを聴かせたのは自分だったと回想し、Harleyは当初それを「ヒッピーの音楽」のように評していたと説明している。さらに、パンクに惹かれた理由の一つとして、体制に対抗する革命的な側面を挙げた。このほか、Bad Brainsが『We Will Not』を書いた日に171 Avenue A Studioに自分もいたと話している。Parrisは、ある初期リハーサルでHarley Flanaganがドラム、自分がギター、Steve “Stupid”がベースを担当したと振り返っている。

Parrisは、Frontlineのある曲にあった、一つの音を刻んだ後に三つのコードを打つような構造を当時の参考例として挙げた。また、Bad Brains『Riot Squad』にも同様の、一つの音を刻んでから複数コードを打つ構造があったと述べている。さらに、Stimulatorsについて、当時のニューヨークにおけるSex Pistolsへの回答のような存在で、外見面でもSex Pistolsをかなり模していたという見方を述べた。このほか、後にニューヨークで現れた多くのバンドがBad Brainsの方向性に影響を受けたという自身の見方を述べた。加えて、『The Age of Quarrel』期の作曲における影響源として、Motörhead、Sex Pistolsに加えてRushも挙げた。

Harleyは初期Bad Brainsについて、非常に演奏が締まっており、自分が見た中でも最高水準だったという強い評価を述べた。また、Motörheadを『ヘヴィメタル』というより、路上感のあるロックンロールだと捉えていると話している。さらに、Motörheadを、パンクとメタルの双方から評価され、両者の境界をつなぐ存在として捉えていると話した。Johnは1975年にThe Stooges『Raw Power』を聴いた時、強い衝撃を受けたという。また、1977年頃からSex Pistols、Dead Boys、The Clash、Ramonesなどのパンクが持つ怒りに強く共鳴したと語っている。

Johnはノーフォークにいた米海軍時代、自分はSex Pistolsのシャツを着るような目立つパンク好きだったと語っている。Harleyは当時、John Coltrane、Miles Davis、インド音楽やマントラ、ジャズ・フュージョン、Santana、Black Sabbathなど幅広い音楽を聴いているという。Mackieは、子どもから10代の頃は正式なレッスンではなく、ラジオやテレビをよく聴きながら独学でドラムを身につけたと述べている。また、Me And Iについて、ロック、ファンク、レゲエの混合であり、ハードコアではなかったと説明する。さらに、影響を受けたドラマーとして、Bad BrainsのEarl HudsonとFearのSpit Stixを具体的に挙げた。

MackieはCro-Magsの演奏では通常のライド・シンバルを必要とせず、主にクラッシュ・シンバルを使うと説明している。また、ドラム椅子を高くすることで、無理な姿勢を取らずにより強く、大きな音で叩けると述べている。Dougは自分の音楽的背景としてJimi Hendrix、Black Sabbath、Motörhead、Thin Lizzyなどを挙げた。Parrisは14歳頃、弦が少ないのでギターより簡単だと思ってベースを選び、既成曲を習うより自分の曲を書くことで演奏を身につけていったと記憶している。また、バンド開始時には自分がベースを担当し、その後バンドの形が変わる中でギターへ移ったと話している。

ParrisはJoe PerryがBC Rich Bichを持つ写真に影響され、1981年に6弦のBC Rich Bichを入手したと話している。また、Cro-Mags期にErnie Ball Super Slinkyの9ゲージを一貫して使用していたと語っている。さらに、Doug Hollandと音色や役割を細かく組織したわけではなく、Cro-Magsでは2本のギターが互いを重ねることが多かったという。Mackieは学校のバンドで約1年間トランペットを演奏したが、合わずにドラムへ戻ったと振り返っている。Parrisは、父親が芸能管理・出版・制作・興行など音楽業界の複数の仕事をしていた一方、自分が音楽家になることには否定的だったという。

Parrisは13歳頃、父親にスネアドラムを頼んだが、代わりにアコースティックギターを渡されたと語っている。また、既成曲を覚えるより、自作曲を書いて何度も弾くことでギターを独学したと説明する。さらに、初期に強く意識したギタリストとしてJimmy Page、Steve Howe、Alex Lifeson、Joe Perryを挙げた。このほか、The Madのベース奏者として採用されたが、自作曲を演奏できないと告げられ、その場で辞めたと述べている。DougはKraut初期にRamones、Sex Pistols、The Clashの曲を演奏した後、自分が以前から書いていた曲を持ち込んだと説明している。

Doug Hollandについての記事では、Steve JonesがKrautの『Kill for Cash』『Sell Out』『Onward』でギターを弾いたことが記されており、Doug自身もJonesとの親しい交流について語っている。Mackieは幼少期に台所の物を叩いていた頃は家族が許容したが、本格的なドラムを得た後は集合住宅の近隣から騒音を指摘されたと記憶している。また、小学校1年頃にはすでにドラマーになりたいと考え、単独で観客の前でドラムを披露した経験もあったと話している。HarleyはStimulators離脱後の最初の編成を、Harley=ベース、Dave Stein=ギター、Dave Hahn=ドラム、John Berry=ボーカルだったと述べている。また、初期Cro-Magsで、Bad Brains、Motörhead、Minor Threat、Dischargeの要素に、Oi!風の大合唱とニューヨーク的な重いブレイク部分を組み合わせたような音を考えていたと話している。

Harleyは初期1980年代のM.O.I.について、Harley=ドラム、Doug Holland=ギター、Nunzio=ベース、John Joseph=ボーカルだったと語っている。また、M.O.I.を、Faith、Void、Minor ThreatのようなWashington D.C.系の感触を持ちながら、それより速くニューヨークらしい要素を持つバンドだったと自身では説明した。さらに、Doug Hollandが『The Age of Quarrel』の曲が書かれた後に加入し、旋律的なリード・ギターと音の厚みを加えたという。Parrisは自分の作曲における主要な影響源としてRushとMotörheadの2組を挙げた。また、上記Rushの単純なコード・リフを参考にしつつ、自分ではその発想を逆向きに演奏することで別のリフを作ろうとしたと説明する。

Harleyは、Stimulators時代からベースを弾き始めていたが、ドラムからベースへ本格的に移ったのは1983年末だったと説明している。また、自分が多くの曲を書いており、ドラマーの位置から他の演奏者へ毎回教える負担が大きくなったためベースへ移ったと述べている。さらに、ベースを始めた初期には自分の機材をほとんど持たず、借り物を使っていたと振り返っている。このほか、後に譲り受けたGuild Starfireが自分の最初のベースになったと話している。加えて、『The Age of Quarrel』で使ったIbanez Musicianを知人から100ドルと言われ、実際には手持ちの約50ドルで入手したという。

Harleyは、その後Guild Pilotを入手し、以後の多数の自分のレコードで使用したと語っている。また、自分のベース奏法が長年ドラマーだった経験から形成されたという。さらに、自分の右手の強さについて、ドラムでライド・シンバルやハイハットを16分音符で叩いてきた経験が土台になったと説明する。このほか、Darryl JeniferやLemmy、Geezer Butlerらから学んだ後、Stanley ClarkeやJaco Pastoriusも研究し、自分なりに取り入れたと説明している。Mackieは、Central ParkのSchaefer Music FestivalでBuddy Richを見たことを、ドラムへ向かう決定的な出来事だったと語っている。

Mackieは後にニューヨークのHigh School of Performing Artsへ通ったと述べている。また、Bad Brainsのメンバーと友人になったことがパンクへの見方を変える契機になり、彼らとはジャズやR&Bも好んでいたと話している。Parrisは『The Age of Quarrel』を書いていた頃の主要な影響として、MotörheadとSex Pistolsが恐らく二大要素で、さらにRushも挙げた。また、Motörheadを聴いたことで『優れた音楽を作るのに何が必要か』という自分の考えが大きく変わり、それ以降はより自分らしい書き方をするようになったと語っている。さらに、音楽的方向性の変化も理由となってReported Missingを解散し、より重く速いMotörhead影響下の新曲を演奏する新バンドを作ろうと動き、そのバンドがCro-Magsになったと述べている。

Parrisは初期の自分の音楽をRushとMotörheadの混合物と表現し、左手/旋律はRush、右手の激しいストロークはLemmyを手本にしたという具体的な演奏イメージを説明した。


4. 初期曲とデモ――『The Age of Quarrel』へ至る作曲の蓄積

『The Age of Quarrel』へ至る初期曲とデモには、曲目、録音日、作曲者、編成について複数の記録がある。「We Gotta Know」が確認できない資料も、成立時期の断定には使わず、そのまま記録する。

ParrisはMalfunctionについて音楽は自分、歌詞はJohn Josephと説明している。John Josephは、『World Peace』を否定的な曲と受け取る人に対し、世界平和を語りながら動物を食べることを例に挙げ『動物にとっての平和はどこにあるのか』と問いかけた。また、世界平和の基礎について、すべての人には奉仕する立場があり、最大の利益を得られる相手として神/Krishnaに仕えるべきだという自らの信仰を説明。さらに、『Show You No Mercy』は自分が本人が「悪魔的な説教者」と呼ぶ人々に向けた曲で、霊的な人は慈悲深くあるべきだが、それを拒む人々もいるという趣旨を説明。このほか、『Hard Times』について、落ち込まず信念を失わず、結束するという趣旨を説明し、1本の棒と束ねた棒のたとえを用いた。

John Josephは、『Hard Times』について自分がコーラスを書いたと説明している。また、『Street Justice』『Life of My Own』など一部曲はEric Casanovaが歌詞を書いたと説明している。さらに、『It’s The Limit』は以前『Kill The Ayatollah』という題名だったと記憶している。このほか、Parrisが『Malfunction』の音楽を書き、自分が歌詞を書いたと説明している。Parris Mayhewは、『It’s The Limit』の音楽を書いた時の具体的な作曲過程を説明し、自宅でギターを弾きながら作ったと話している。

Parris Mayhewは、『It’s The Limit』の右手の弾き方でLemmyのような弾き方を試したと説明している。また、初期にHarleyへ聴かせていた楽曲として『World Peace』『It’s The Limit』『Life of My Own』『Hard Times』『Seekers of the Truth』を挙げた。さらに、『World Peace』はCro-Mags結成以前に書いた曲だと振り返っている。このほか、『World Peace』を書いた際、Motörheadのように演奏しようとしていたと語っている。加えて、『World Peace』の複数のリフを短い時間の流れの中で続けて書いたという。

Parris Mayhewは、『The Age of Quarrel』につながる初期曲の多くを15〜16歳頃に書いたと語っている。また、作曲する内容に合わせて自分の演奏を適応させ、その曲を弾けるよう練習して上達したという。Harley Flanaganは、最初のアルバム以前のボーカルEricと、自分が多くの歌詞を一緒に書いたと主張した。また、Cro-Magsを形にしようとしていた時期にスタジオで録った初期デモが、後の第1作の設計図になったと説明する。Harleyは、最初期のデモでは自分がベース、ギター、ドラム、ボーカルを担当したと主張した。

Parrisは、Eric CasanovaがRun-DMCの『Hard Times』という題名を出発点にし、その後は自分自身の歌詞を書いたと説明している。また、Eric Casanovaが当時の人気ヒップホップ曲の『Street Justice』という題名を出発点にし、その後は自分の歌詞を書いたと述べている。さらに、Eric CasanovaがBob Marley『Survival』をきっかけに『Survival of the Streets』の題名を書き、その後は自分の歌詞を書いたと話している。このほか、『The Age of Quarrel』について、Doug Hollandが『その主要なリフ』を書いたと述べた。加えて、『Other Side of Madness』について、ピアノ部分以降は自分が離れた後にスタジオで作られた部分だという認識を述べた。

Parrisは、『Malfunction』について、Judas Priestのある曲がなければ同曲のような作品は生まれなかったと思う、と語っている。文字起こしでは曲名が『green Malishi』と認識されている。HarleyはBlack Flag、Circle Jerks、とりわけBad Brainsを聴いたことで、より速く攻撃的でポップさの少ない方向へ進み、自分の曲を書き始めたと述べている。また、その初期デモがインタビュー時点で入手可能になっているという。Parrisは、『Don’t Tread On Me』『Do Unto Others』がCro-Magsの演奏曲へ入ったのは、Harleyが別のソロ活動の構想を断念した後だったと記憶している。また、そのリハーサル時点でSteveが『World Peace』『Life of My Own』をある程度知っており、Harleyが事前に曲を教えていたのだろうと話している。

Parrisは、『Hard Times』冒頭のリフをそのリハーサルの前日に書いたと振り返っている。また、前日に書いた『Hard Times』のリフをその初期リハーサルで実際にジャムしたという。さらに、『Life of My Own』の音楽を、開放E弦を基礎に三つのコードを打ち込むような、基本的に一つのリフを中心とした構造だと説明する。このほか、『Hard Times』『Life of My Own』を書いていた頃、自分なりの曲の作り方を形にしようとしていた時期だったと説明している。加えて、『Life of My Own』は完全に同じではないものの、一つの音を軸にしてコードを打つという構造上の発想は似ていたと述べている。

Parrisは、『Life of My Own』について音楽は自分が書き、歌詞はEric Casanovaが書いたと話している。また、Ericが書いた『Life of My Own』の歌詞を非常に簡潔な内容だったと振り返り、その簡潔さを肯定的に評価した。さらに、『Survival of the Streets』『Hard Times』『Life of My Own』を、Eric Casanovaが歌詞を書いた初期曲群としてまとめて挙げた。このほか、Ericが書いた『Survival of the Streets』『Hard Times』『Life of My Own』を、初期Cro-Magsの考え方を示す『マニフェスト』のような曲群だという自身の見方を述べた。加えて、『Hard Times』でJohn Josephが歌った歌唱のリズムや言葉の置き方もEric Casanovaが作ったものだと語っている。

Parrisは、『Revenge』制作について、およそ90%の曲を自分が書いたと主張した。Harleyは『World Peace』をParris Mayhewとの初期の共同制作曲の一つとし、Parrisが大半のリフを作り、二人で曲を構成したという。また、『World Peace』の歌詞を、自分が書いた歌詞としてはおそらく5番目か6番目のものだったと語っている。さらに、『Show You No Mercy』について、John Josephが歌詞の大半を書いたと説明する。このほか、『Malfunction』の特定部分にBlack Sabbath『Sabbath Bloody Sabbath』の影響があると説明している。

Harleyは『Seekers of the Truth』を、ハードコアよりもメタル寄りの曲だったと自身では捉えていると述べている。また、『Hard Times』の『Cro-Mag, Skinhead, Breakout, Now』という一節について、自分がそれまでのSkinheadとしての生活から抜け出す必要を感じていたことと結びつけて説明した。Johnは初期Cro-Magsの精神的な内容について、説教のように聞こえない形に包みながら真実を伝えようとしたと説明し、『Seekers of the Truth』などを例に挙げた。Parrisは『World Peace』『Hard Times』『Life of My Own』『Kill The Latola(後のIt’s The Limit)』を最初のRenaissance製ベースで書いたと話している。また、翌日、Harleyの叔母Deniseの11th Streetの部屋で演奏を聴かせ、『World Peace』を披露した後、Parris・Paul Dordal・Harleyの3人でバンドを始めることになったと述べている。

Parrisは『Malfunction』を母親の台所で、1958年製Martin D28のアコースティックギターを使って書いたと語っている。また、『Malfunction』の音楽は3つの部分だけで構成され、流れよく完成したと記憶している。Harleyは『Hard Times』の歌詞について、当時の自分、Eric Casanova、John Josephが実際に送っていた生活を反映していたという。MusicBrainzとMetal Archivesはいずれも1985年デモのレーベルをCro-Mag-Non Record and Tape Co./Cro-Mag-Non Record & Tape Co.として掲載している。MusicBrainzとMetal Archivesは1985年デモのカタログ番号をCMN-C-701としている。

Cro-Magsについて、MusicBrainzは1985年デモの各曲でCro-Magsをプロデューサーとして登録している。Cro-Magsについて、MusicBrainzとMetal Archivesの1985年デモ情報では、Mackie=ドラム、John Joseph=ボーカル、Parris Mayhew=ギター、Harley Flanagan=ベース/ボーカルの4人が演奏者として掲載され、Doug Hollandは掲載されていない。MusicBrainzは1985年デモの各曲でHarley FlanaganとJohn Josephの2人を主唱として登録している。MusicBrainzとMetal Archivesの現行曲目データはいずれも1985年デモを13曲として掲載している。Parrisは『The Age of Quarrel』について、Eric Casanovaが自分で書いた曲を本人の声で歌った形も残してほしかったという希望を述べた。

同資料はSong Shopでの最初期ソロ・デモが1983年初頭までに完成したとしている。Harleyは『Life of My Own』『World Peace』周辺の歌詞を、自分たちが14〜15歳頃に書いた初期の歌詞群だったと話している。また、『Life of My Own』の歌詞が2010年時点でも自分にとって強い意味を持つと述べた。Parrisは『World Peace』を、Motörheadを知った後に自分が書き始めた新しい曲群の最初の曲だったと説明し、当時のReported Missingのメンバーはその方向性を理解しなかったと振り返っている。また、『World Peace』を最初のCro-Magsの曲と呼び、15歳時にRenaissanceベースで書いたと回想し、当時は『ハードコア曲』ではなくMotörhead型の曲を書いているつもりだったと説明する。


5. 「We Gotta Know」はどう生まれたのか――一致する証言と食い違う記憶

「We Gotta Know」の成立についてはHarley Flanagan、Parris Mayhew、John Josephの説明を中心に複数の証言がある。導入部の発生や各メンバーの寄与には不一致があるため、証言を一つの経緯へまとめず、それぞれ記載する。

John Josephは「Malfunction」「Seekers of the Truth」「We Gotta Know」「It’s The Limit」を自分が書いたと発言している。また、後年、真実は時間に左右されないから今でもWe Gotta Knowを歌えると述べ、真実・人生の目的・意味を問いかける文脈で説明。さらに、『Malfunction』『Seekers of the Truth』『We Gotta Know』『It’s The Limit』を自分が書いたと発言している。このほか、真実は時代に左右されないため、今でも『We Gotta Know』を歌えると説明している。加えて、同曲を語る中で、真実を探すこと、束縛や鎖を断ち切ること、自分の頭で考えること、人生の目的や意味を問う歌詞を自ら挙げた。

John Josephは、「人生とは何か」と問い、人生の目的や意味を自分自身へ問いかける必要があると説明している。また、初期Cro-Magsには路上文化と「より高い意識」の両方があり、『We Gotta Know』『Malfunction』『It’s The Limit』『Street Justice』『Hard Times』などをその文脈で挙げた。Harley Flanaganは、『We Gotta Know』冒頭が一つの音楽的潮流を生んだという聞き手の評価に対し、Harleyは強く同意した。Harleyは、『We Gotta Know』冒頭の影響例として、文字起こし上『Marauder』と認識されたバンドの最初のアルバムを挙げ、同じ発想の変形が多いという自身の見方を述べた。また、『We Gotta Know』と『Face the Facts』について、John JosephがCro-Magsへ持ち込んだ初期の歌詞の一部だったと説明している。

Harleyは『We Gotta Know』の初期歌詞について、当時の自分とJohnの状態を反映しており、Johnは精神的な探求を始めた時期だったという。また、『We Gotta Know』がWestbethでリハーサルをしていた時に書かれたと述べている。さらに、Bad Brainsが長く演奏していなかった『I Against I』を、当時のアルバム収録前にDave Hahnがテープで所持しており、自分が彼の家で聴いていたと語っている。このほか、当時、Mackie JaysonやBad Brainsからフュージョンを教えられ、自分でもReturn to Forever、Mahavishnu Orchestra、Weather Reportなどを聴くようになっていたと話している。加えて、『We Gotta Know』の導入部を、少数の大きな音を伸ばし、その隙間を大きなドラムのフィルで埋めるというフュージョン的発想を単純化したものだと語っている。

Harleyは『We Gotta Know』の曲の主要部分について、Bad Brains『I Against I』終盤でDocがリードを弾く部分から着想を得たという。また、リハーサル中に他のメンバーが休憩で部屋を離れている間に『We Gotta Know』の最初の発想をまとめたと述べている。さらに、メンバーが戻ると、自分が作った冒頭のコードをMackie Jaysonに弾いて聴かせ、その上で大きなドラムのフィルを入れるよう求めたと説明する。このほか、Mackieの跳ねるような独特の演奏感覚が自分のコードに重なり、『We Gotta Know』の攻撃的な感触やグルーヴにつながったと評価した。加えて、『We Gotta Know』が約5分でまとまったと記憶している。

Harley Flanagan with Cro-Mags at Hellfest 2022
Harley Flanagan、Cro-Mags、Hellfest 2022。
Photo: Selbymay / Wikimedia Commons / CC BY-SA 4.0

Cro-Mags公式Bandcampでは『We Gotta Know』を『The Age of Quarrel』の1曲目、長さ3分19秒として掲載している。Harleyは、『なぜここにいるのか』『なぜ苦しむのか』と考え始めることが、人生の本当の意味を探し始める機会になるという考えを述べた。Johnは、寺院生活から戻った後に学んだ精神的な原則をCro-Magsの音楽へ取り入れ、その具体例として『We Gotta Know』『Malfunction』『It’s The Limit』を挙げた。Parrisは『We Gotta Know』の導入部が、『Malfunction』の練習中に自分の低音E弦が大きく狂っていたため、演奏を続けながら調弦しようとした偶然から生まれたと説明している。また、『Malfunction』演奏中、GからF#へ進みF#を長く鳴らしている間に調弦ペグを回したことが、新しい響きのきっかけになったと述べている。

Parris Mayhewは、Parrisによれば、HarleyはParrisが調弦していることを理解するとそのコードの変化を真似し、2人で同じコードをもう一度鳴らした。また、Parrisによれば、Mackie Jaysonは予期しないコード変化に大きなシンバルのクラッシュで反応し、その偶然の組み合わせが導入部の感触を形作った。Parrisは3人が新しい響きを気に入り、そのコード進行を数回繰り返して長く鳴らす形へ発展させたと話している。また、当初、新しい導入部が自分の『Malfunction』と同じコード進行だったため、既存曲を切り分けて別曲へ使うことに抵抗したと振り返っている。さらに、その偶然生まれた導入部を、当時すでに形になりつつあり導入部を必要としていた『We Gotta Know』へ加えたと話している。

Parrisは『We Gotta Know』の残りについて、Harleyがヴァースのリフ、自分がコーラスとブリッジ、John Josephが歌詞を担当したと主張した。また、Harleyが持ち込んだ『We Gotta Know』のヴァース・リフがBad Brains『I Against I』に非常に似ていると当時感じ、使用に反対したという。さらに、『We Gotta Know』導入部について、元のコード進行は自分が『Malfunction』用に書いた一方、その場での成立はParris・Mackie・Harleyの3人全員の共同とも捉えられると語っている。このほか、『We Gotta Know』はバンド内の対立が激しい時期に時間をかけて組み立てられたと語っている。加えて、『We Gotta Know』を組み立てていた時期にMackieがダブル・バス・ドラム用ペダルを購入し、Cro-Magsで使いたがっていたと述べている。

ParrisはMackieと2人だけでWestbeth Studiosに集まり、新しいダブルペダルをCro-Magsの音楽へどう入れるか試したと記憶している。また、Mackieとのダブルバス試行でAccept『Fast As A Shark』を主な手本にし、Motörheadの複数曲も参考にしたという。さらに、その試行の結果、Mackieのダブルバスを『We Gotta Know』のコーラス部分で使用する形になったと説明する。Mackieは1980年代初頭にThe Icemenで演奏していた際、メタルの影響が強い音楽のためダブルバスが必要になり、2台のバスドラムではなくダブルペダルを使っていたと説明している。Cro-Magsについて、Metal Archives掲載の1985年『Age of Quarrel』デモ曲目には『We Gotta Know』がなく、『Everybody’s Gonna Die』『Dub』などが含まれている。

MusicBrainzは『We Gotta Know』について、作詞者をHarley FlanaganとJohn Joseph、作曲者をHarley FlanaganとParris Mayhew、出版社をProtoons Inc.として登録している。Parrisは『We Gotta Know』導入部が偶然生まれた場面について、当時はリハーサル量が多くなく、Mackieが曲の進行を完全には把握せず自分を見て追うことがあったと話している。また、『We Gotta Know』のヴァース・リフがBad Brains『I Against I』に似ていると感じていたため、長く同曲への自分の著作主張を強く出すことを避けてきたと述べている。さらに、『We Gotta Know』のヴァース・リフとBad Brains『I Against I』の類似を理由に、Darryl JeniferにもHarleyや自分と同程度のクレジットがあってよいのではないかという個人的見解を述べた。Shazamは『We Gotta Know』を『The Age of Quarrel』収録曲として1986年9月12日発売と表示している。

Shazamは『We Gotta Know』の著作情報でJohn JosephをComposer、Harley FlanaganをSongwriter、Parris Mitchell MayhewをComposerとして表示している。ライブ音源集『Here’s To The Ink In Ya』の収録情報では、1986年7月26日のWellington’s公演で『We Gotta Know』が1曲目に収録されている。同ライブ音源集の収録情報では、1986年8月6日のElectric Banana公演でも『We Gotta Know』が1曲目に収録されている。The Punk Rock Museumは、Cro-Magsの手書きセットリスト現物を『July 20 at Rock Hotel with Bad Brains』の資料として所蔵・公開している。18枠の手書きセットリストには『We Gotta Know』の曲名が確認できない。

No Echoは、Bad Brainsの『I Against I』に向かう楽曲群が1985年7月19・20日のRock Hotel公演に向けたリハーサル中に書かれたと記述している。2022年の5CD『Here’s To The Ink In Ya』はDisc 1を『CBGBs 09/22/85』と特定している。CBGBs 09/22/85として発売された12トラックの曲目一覧には『We Gotta Know』が含まれていない。2022年の5CDはDisc 2を『CBGBs 07/05/86』と特定している。CBGBs 07/05/86として発売された15トラックの曲目一覧には『We Gotta Know』が含まれていない。

GnuDBの『Live 85 86』では『CGBGs 0786』部分の先頭に『We Gotta Know』3分50秒が登録されている。白ラベルSide Oneは『We Gotta Know』を1曲目、3分13秒と印刷している。2008年のライブブートレグ索引には『CRO-MAGS – CA Ruthie’s Inn 1986』という音源ファイルがMediaFireリンク付きで掲載されていた。同じSacramento Music Archive記事でShayne Stacyは、Nation on Fire音源にはない『より良い音質のカセット録音』をCro-Magsについては持っていると説明している。独立した『Friday Rock Show』アーカイブ2系統は、1986年8月15日のTommy Vance番組でCro-Mags『We Gotta Know』が放送されたと一致して記録している。

Friday Rock Show Wikiは1986年8月15日回のオフエア録音が2分割ファイル(各約1時間)として現存し、『We Gotta Know』を含むPart 2が保存されていると掲載している。旧来の音源交換目録はCro-Mags『Winnipeg, MB 7/26/86』を約40分、音質評価10、SBD(サウンドボード)として登録している。Montréal Concert Poster Archiveは1985年12月6日のRising Sun公演資料として『CRO-MAGS THE NILS』のフライヤーをStephen Smith collection由来で掲載している。Montréal Concert Poster Archiveの1986年年表は、1986年5月17日にFoufounes Électriques関連ページでCro-Magsの公演資料を登録している。個人所蔵レコード写真を公開するVinyl Records Galleryは、Cro-Magsの非公式12インチLP『We Gotta Know』をBeck’s Records BR 001として掲載し、裏ジャケットに『August 6, 86』と記載されていることを写真説明で示している。

Dawtrinaの『Friday Rock Show』録音アーカイブは、1987年5月1日のTommy Vance番組でCro-Mags『We Gotta Know』が6曲目に放送されたと記録している。Gray Matter #3の当時ライブ評は、Glen Mills, PennsylvaniaのPulsationsで1987年6月29日に行われたCro-Mags公演について、4人が『We Gotta Know』のイントロを始め、その後John Josephが登場したと記述している。Montréal Concert Poster Archiveは1985年8月15日のRising Sun欄に『CRO-MAGS』の公演資料を登録している。『Hard Times in an Age of Quarrel』のMusicBrainz記録は、『Intro / We Gotta Know』を1991年10月31日Hollywood Palladium, Los Angelesで録音されたライブ音源として同定している。同リリースのMusicBrainz記録は『We Gotta Know』を1994年2月18日Studio One, Newark, New Jerseyのライブ録音として同定し、トラック長を2分43秒としている。

Metal Forcesの当時ライブ評は、LeedsのQueens Hallで1987年12月13日に行われたChristmas On Earth FestivalのCro-Mags評で、『We Gotta Know』が実際に演奏されたことを明記している。同評者は、Cro-Magsがメタル主体の大規模フェスに『ミスマッチではないか』という懸念に対し、『We Gotta Know』が進むにつれてその懸念を感じなくなったと評価している。


6. 『The Age of Quarrel』録音――「ほとんどライブ録音」の実像

『The Age of Quarrel』の録音については、メンバー証言、Steve Remoteの説明、盤面クレジットが残る。録音方法、編集、各楽器、ボーカル、ミックス、制作クレジットを資料ごとに追う。

Parris Mayhewは、Age of Quarrelは非常によくリハーサルされ、編集なしに近く「実質的にライブ・アルバム」だったと説明している。Harley Flanaganは、Age of Quarrelはバンド全員で同室・同時に演奏し、その後Johnがボーカルを録り直したと説明している。John Josephは、最初のレコードでマスタリング過程に何かが失われたため、リマスター予定だと説明している。また、自転車メッセンジャーをしていた時期に、Parrisと自分で最初のデモ費用を出したとJohnは主張している。さらに、有名なデモ以前にDon Fury セッションがあり、Mackie、Harley、Parris、Kevin、Johnの編成だったと説明している。

John Josephは、『The Age of Quarrel』のボーカルを1日で歌ったと主張している。また、J.W. Leeに制作してほしかった、Chris Williamsonのスタジオでの仕事には不満があるという自分の評価を述べた。Parris Mayhewは、『The Age of Quarrel』を作る際、あらかじめジャンルの設計図を決めるより、自室でギターを弾き、気に入るものが出るまで探す方法だったと説明している。また、気に入ったリフが出ると小型カセットレコーダーへすぐ録音して残していたと説明している。さらに、Harleyが別途ソロ・レコード用に録音した素材があり、後に『Don’t Tread On Me』などがCro-Magsのセットへ入ったと説明している。

Parris Mayhewは、アルバム以前のデモ録音ではJohnが指示を受け入れ、Parrisがボーカル・ブースで歌い回しを助けたと説明している。また、アルバム録音時にはJohnがデモ時ほど指示を受け入れなくなり、さらに風邪もひいていたとParrisは回想。さらに、Johnのアルバムでの歌唱はデモより劣ると感じていたが、現在多くの人がアルバムを愛しているので結果としては重要ではないと述べた。このほか、スタジオ入り時点で十分にリハーサルされており、Steve Remoteから非常にタイトだと言われたと振り返っている。加えて、当時はPro Toolsのような編集はなく、基本演奏はバンドが曲を演奏したものだったと説明している。

Parris Mayhewは、Chris Williamsonはオーバーダビングを好まず、アルバムにはオーバーダビングがほとんどないと説明している。また、『Malfunction』ではParrisがダブル・トラッキングを強く求めて行ったと説明している。さらに、『The Age of Quarrel』を「実質的にライブ・アルバム」と表現。Harley Flanaganは、1985年2月16日にHigh-Five Studiosで12曲の『Age of Quarrel』のカセットを録音したという番組側が紹介した書籍の記述にHarleyが同意し、それがアルバム以前の原型版だったと説明している。また、アルバムよりカセット/デモの方を好み、より生々しく、爆発的でライブの自分たちに近いと評価。

Harley Flanaganは、『The Age of Quarrel』が約14日、100時間未満、1986年1〜2月にEastside Soundで録音・ミックスされたという書籍の内容の紹介に続き、Chris Williamsonを「いわゆるプロデューサー」、実質Steve Remoteだったという趣旨を述べた。また、『The Age of Quarrel』は自分が録音した作品の中でも、バンド全員が同時に演奏して録ったレコードだったと説明している。さらに、バンドが同じ部屋で同時に演奏し、その後Johnがボーカルを録り直したと説明している。このほか、制作には不満や失敗があったとしつつ、同時演奏ゆえの「即興的な魔法」があったと評価。Parris Mayhewは、Cro-Mags初期曲を書いていた時期、Harleyの元マネージャーがHarleyのソロ録音を企画し、スタジオ費用を負担したという。

Parris Mayhewは、Harleyはその企画で5曲を録音したと語っている。また、そのソロ企画は『Ten Inches of Harley』という10インチ盤の案だったと述べている。John Josephは、Bad Brainsの初期レコード録音時に現場におり、当時彼らと生活していたと記憶している。Parrisは、Harleyの5曲のソロ録音について、録音後にHarleyが持っていたカセットを聴かせてもらったと話している。また、Harleyのソロ録音へ自分が参加しなかったことについて、当時少し侮辱されたように感じたと振り返っている。

Parrisは、リハーサルをカセットへ録音し、そのカセットを人へ渡すことがあったという。Johnは『The Age of Quarrel』のボーカル録音について、1日で歌い、自分は急かされたと感じていたと語っている。また、『The Age of Quarrel』録音当時、発声や歌唱技術について十分な知識を持っていなかったと自己評価した。Harleyは、その時期にスタジオで録音した初期デモが自身のドキュメンタリー『Wired for Chaos』で使われていると話している。また、自分が一人で複数楽器と歌を録音した『最初のデモ』について、High Five Studioだったと思うと述べた。

第三者番組は『The Age of Quarrel』の制作クレジットとしてChristopher Williamsonを制作担当と紹介した。第三者番組は『The Age of Quarrel』の録音技師としてSteve Remoteを紹介した。第三者番組は『The Age of Quarrel』のミックスをChristopher WilliamsonとSteve Remoteが担当したと紹介した。第三者番組は『The Age of Quarrel』の録音作業の補助としてJamie Lockeの名前を紹介した。第三者番組は『The Age of Quarrel』がAura Sonic LTDでマスタリングされたと紹介した。

Harleyは、自分が録音した初期デモには、後にCro-Magsの曲となった素材が複数含まれていたと語っている。また、ハードコアのボーカルについて、技巧的な歌唱より興奮やエネルギーが重要だという見方を述べ、その観点から『The Age of Quarrel』でのJohnの爆発力のある歌唱が作品に合っていたと評価した。Parrisは、Harleyのソロ録音用素材からCro-Magsで使用した曲は『Don’t Tread On Me』と『Do Unto Others』の2曲だったという。Johnは、Bad Brainsがそのアルバムを録音した際、自分もスタジオ内にいて録音を見ていたと述べている。Harleyは、その時期にスタジオで録音したデモが、後にCro-Magsが始めた音楽の設計図になったと説明する。

Amoeba MusicとMetal Archivesのクレジット情報では、John Joseph=ボーカル、Harley Flanagan=ベース、Mackie Jayson=ドラム、Parris MayhewとDoug Holland=ギターとして掲載されている。Amoeba MusicとMetal Archivesはいずれも、Chris Williamsonを制作・ミックス、Steve Remoteを録音技師・ミックスとして掲載している。Metal Archivesは『The Age of Quarrel』を1986年にEastside Studios(ニューヨーク市)で録音し、Aura-Sonic Ltd.でデジタル移送したと掲載している。HarleyはStimulatorsの45回転盤を録音した時、自分は12歳だったと記憶している。Mackieはスタジオ録音について、編集でつなぐよりも、曲全体を最初から最後まで一度の演奏で録る方法を好むと説明している。

Parrisは1981年のBC Rich BichがCro-Mags在籍中に所有していた唯一のエレキギターで、初期3作品の録音でもそのギターを使用したと述べている。また、『The Age of Quarrel』録音で1981年製BC Rich Bichを使用したと話している。さらに、『The Age of Quarrel』ではBOSS Heavy Metalペダルを使用したと語っている。Mackieは録音で、部屋の中で実際に聞こえるドラムの自然な音をそのまま捉えることを重視しているという。また、自然なドラム音の例としてLed Zeppelinの古いJohn Bonham録音を挙げ、自分もそのような原音感を求めると説明する。

Parrisはアルバム録音前の約4年間、Harleyと対面でリフを出し合いながら音、技法、曲を磨いたと話している。DougはKrautを離れる時点で、同バンドの3枚目用の曲がすでに録音済みだったと振り返っている。MusicBrainzは1985年デモの録音技師としてJerry Williamsを登録している。Metal Archivesは1985年デモの録音技師としてTim WilliamsとJerry Williamsの2人を掲載している。Metal Archivesは1985年デモを1984年11月2日と1985年2月16日の2日にHi Five Studiosで録音したと掲載し、MusicBrainzも各録音を同期間として登録している。

Metal Archivesは『The Age of Quarrel』のゲストとしてCarlをバッキング・ボーカル担当に掲載している。HarleyはJohn Joseph加入後まもなく複数のデモを録音し、そのうちの一つが後に『Before the Quarrel』と呼ばれるものだと説明している。また、上記のデモ群を録音した後、ほどなくDoug HollandがKrautを離れてCro-Magsへ加入したという。Harleyによると、Doug Hollandの加入で編成が揃い、その後『The Age of Quarrel』を録音した。Parrisは『The Age of Quarrel』ではエフェクターを使わず、BOSS Heavy Metalペダルを使ったのは2作目だったと述べている。

Parrisは『The Age of Quarrel』正式盤以前に、収録曲の大半をすでにデモ録音していたと話している。また、当時のハードコアでは、曲を録音してカセットにまとめ、観客へ直接販売するやり方をしていたと語っている。さらに、後に『Before the Quarrel』として出たデモ録音を、正式盤より力強く、当時の勢いを保った演奏だと評価した。このほか、『The Age of Quarrel』正式録音へ入った頃には、バンド内部がすでに分裂し始め、以前のような一体感はなかったと語っている。加えて、正式盤では、デモ時ほどテンポや全体の感触へ細かく注意を払っていなかったという自身の認識を述べた。

Parrisは『The Age of Quarrel』制作について、ボーカル録音へもっと時間をかけてほしかったと振り返った。2018年の『Cro-Mag Demos』発表資料は、Harleyの1982〜83年ソロ録音を『Don’t Tread On Me』『Wake Up (Do Unto Others)』『Dead End Kids』『Why Don’t You』の4曲として掲載している。Harley Flanaganは、Harleyの最初期ソロ・デモは1982〜83年にSong Shopで録音されたと2018年発表資料が説明している。同資料は1982〜83年のSong Shop録音をHarley FlanaganとDenise Mercedesが制作したとしている。同資料はStimulators側の管理者とRat CageのDave Parsonsとの条件面の不一致により、その録音が当時発売されなかったとしている。

Harleyは一人での録音について、クリックを使わず最初にドラムを録音したと述べている。また、ドラムの後にベース、続いてギターとボーカルを重ねたと説明し、クリックなしで録音したドラムへ後から合わせる難しさについても語っている。Steve Remoteは『The Age of Quarrel』をNeveではなくSoundcraftのコンソールで録音したという。Steveは、当初アイソレーション・ブース内にあったMackieのドラムをメイン・スタジオ中央へ移したと説明する。Steveは基礎トラック録音時、Harley、Doug、ParrisをMackieの周囲に配置したと説明している。

Steveはベースとギターのアンプをアイソレーション・ブースへ置き、演奏者からケーブルを引いたと述べている。SteveはJohn Josephの仮ボーカルを、スタジオとコントロール・ルームの間の前室で録ったと話している。SteveはLou Holtzmanからドラムをブース内に残す案を勧められたが、最終的には自分の配置案で録音したと記憶している。Steveは同作の音にとって、機材そのもの以上にバンドとマイクの配置が重要だったという自身の見方を述べた。Steveは初版アナログ盤で効果を最大化するため、ミックスにイコライザー処理とコンプレッションを行ったと語っている。

Steveは後年のCDを、オリジナルのアナログ盤よりやや明るい音だと評価した。Steveは1986年1月10日午後7時頃、Chris WilliamsonとCro-MagsにRocket Rehearsalで会い、録音前の準備とセッション詳細を詰めたと記録した。Steveは1月11日午後10時頃にEastside Soundへ機材を搬入し、設営を始めたと記録した。Steveは1月12日午後2時から翌午前2時まで、基礎トラック録音のためスタジオを予約していたと記録した。Steveは基礎トラック録音を1月14日午前0時から4時の間に完了したと記録した。

Steveは全基礎トラックの録音時間を合計約16時間という。Steveは基礎トラック録音中、演奏者全員が互いを視認できる配置だったと説明する。SteveはJohnだけがメイン録音室外にいたが、ドアの窓を通して他メンバーを見ることができたと説明している。Steveは手元で確認できた当時資料はセッションの日付と時間だけで、トラック表やテイク表はマスターとともにあり自分はアクセスできないと述べている。Steveは当時の通常の手法から、オーバーヘッドにBeyer M160を使った可能性が高いと推測した。

SteveはバスドラムにBeyer M88を使った可能性が高いと推測した。SteveはタムにSennheiser MD409を使った可能性が高いと推測した。Steveはスネアとギター・キャビネットにShure SM57を使った可能性が高いと推測した。Steveは『The Age of Quarrel』録音でクリック・トラックを使用しなかったと明言した。Steveは基礎トラック後、1月18日から2月21日までオーバーダブとミックスなどのために追加12セッションを行ったと記録し、各日付と時間を列挙した。

Steveは残存資料だけでは、追加12セッションのうち何日がオーバーダブで何日がミックスだったか判別できないと話している。Steveは楽器トラックを録り終えた後、正式ボーカル録音をメイン・ルームに設定したと語っている。Steveは正式ボーカルにNeumann U87またはU67を使ったと思うが確信はないという。Steveは同作の録音に編集作業はなかったと説明する。Steveは同作を24トラックの2インチ・アナログテープ、30IPSで録音したと説明している。

Steveは録音機がMCI/Sony製だったと思うが確信はないと述べている。SteveはEastside Soundのメイン・ルームをおよそ22×30フィートだったと思うと話している。Parrisは『Ten Inches of Harley』用録音について、元マネージャーが管理契約への署名を求めてテープを押さえ、Harleyが署名しなかったため当時発売されなかったと振り返っている。また、Harleyのソロ録音を聴いた後、『Don’t Tread On Me』をCro-Magsで演奏しようと自分から提案したという。Harleyは、1983年末にベースへ移った時期に、自分にとって最初のベース録音を行ったと話している。

Harleyは『The Age of Quarrel』録音でIbanez Musicianベースを使用したと明言した。また、『Before the Quarrel』デモではGuildのホロウボディ・ベースを弾いていたと語っている。さらに、『Before the Quarrel』デモでAcousticのアンプを使っていたという。このほか、Eric Casanova在籍期、『The Age of Quarrel』以前にParrisと複数の曲を書いたが、録音されなかった曲があると語っている。同Disc 1の最終トラック『You’ll Be the Death of Me』は発売曲目自体に『Incomplete』と明記されている。

Parrisは『The Age of Quarrel』本録音時のJohn Josephについて、風邪をひいて体調を崩していたと述べている。また、録音時にSteve Remoteから『互いを消してしまうほど』タイトで正確に演奏しているという趣旨を言われたと記憶している。


7. 発売、Profile/Rock Hotel、1986〜87年の同時代評価

発売時期、Profile RecordsとRock Hotel Recordsの関係、初回盤、広告、レビューには同時代資料と後年資料がある。日付や契約関係が確定していない項目は、その状態を明記する。

John Josephは、Profileがハードコアの流通をよく知らなかったため、マネージャーにRock Hotel Recordsというレーベル枠を与えたという経緯を説明。また、Profile側が歌詞カードから一部の歌詞を外し、イラストも見えにくくしたことに不満があったと発言している。さらに、当時約18,000枚売れたとJohnは述べた一方、欲しいのに見つけられない人が多く流通が不十分だったと評価。このほか、デモ・カセットが広く流通し、Metallicaも入手していたと話している。Harley Flanaganは、Profileは主にヒップホップ・レーベルで、Cro-Magsを出したこと自体が珍しかったという認識を述べた。

Harley Flanaganは、Profile/マネージメントから離れてElektraへ移る可能性を望んでいた時期があったと振り返っている。Parris Mayhewは、『World Peace』終盤のパートについて、当時はRushのようなパートを書いているつもりだったという。John Josephは、『The Age of Quarrel』の当初案としてUncle Alが爆発の絵を描いたと語っている。また、レコード会社がその爆発の絵を拒否したと述べている。さらに、Chris Williamsonが代替のジャケット画像を提案・発見したという経緯をJohnは説明した。

John Josephは、ジャケット変更には当初腹を立てたが、後から考えると結果的によかったと述べた。Johnは『Survival of the Streets』の歌詞をEric Casanovaが書いたと説明する。また、『Hard Times』のコーラスを自分が書いたと説明している。Parrisは『The Age of Quarrel』では自分とDoug Hollandの両方がリードギターを弾いたと述べている。Harleyは『The Age of Quarrel』について、地下レーベルではない大きなレーベルから出た最初期のハードコア作品の一つだったという認識を述べた。

Parrisは『Other Side of Madness』について、曲中盤でいったん止まり再開する地点より前のリフは自分が書いたと主張した。Johnは、Chris WilliamsonがRock Hotelを運営していた人物だと話している。Parrisは、『The Age of Quarrel』から自分が得た金額を尋ねられ、『ゼロ』だったと答えた。Harleyは、Cro-Magsは自分たちの仕事に対して十分な支払いを受けてこなかったという趣旨を強く主張した。Johnは『Crush the Demoniac』の歌詞を自分が書いたと主張した。

Johnは、自分が書いたとする『Crush the Demoniac』のプレコーラスとコーラスが正式盤にも使われたと主張した。Harleyは、『ハードコア パンク』という呼び名が使われ始めたのはパンクの終盤以降だったという認識を述べた。Parrisは、『Apocalypse Now』はHarley Flanaganが書いた曲だと語っている。また、自分が離れていた間にHarleyがDougとJohn Josephを集め、Century Mediaとのレコード契約を進めたと主張した。さらに、『Hard Times』の歌詞を書いたのはEric Casanovaだと主張した。

Parrisは、『Hard Times』のリフを自分が書いたと主張した。また、『The Age of Quarrel』に収録された『Hard Times』の歌詞は、Eric Casanovaが書いたものから歌詞上の修正はなく同一だったという。HarleyはD.O.A.の作品を『Hardcore 82』と記憶し、音楽様式としてハードコアという語が使われた初期例だと説明する。外部照合では作品名は『Hardcore ’81』で、D.O.A.のJoe Keithleyも語自体はそれ以前から流通しており、同作が名称の普及に寄与したと説明している。Metal ArchivesはEric Casanovaを歌詞、Carlをバッキング・ボーカルのクレジットとして掲載している。Harleyは『The Age of Quarrel』全体について、自分が経験した怒りや敵意を含む生活体験を基盤にした作品だったという自身の見方を述べた。

JohnはJames HetfieldがBrooklynのLaMourでCro-Magsを見に来て、モッシュピットで踊っていたと記憶している。Harleyは当時、Cro-Magsの反響が特に大きい場所としてニューヨーク、Chicago、Los Angelesを挙げた。ParrisはJohn Josephと完全に共同で作った曲の例として『Malfunction』『It’s The Limit』『Show You No Mercy』を挙げた。Harleyは、当時の『The Age of Quarrel』は自分が経験していたことを音楽として外へ出し処理するためのもので、暴力的行動を勧める意図ではなかったと説明している。また、『The Age of Quarrel』について、敵対的に感じる世界の中で自分自身の勇気を探そうとした作品でもあり、聴き手にとっても勇気を得るための合図になり得ると述べている。

Harleyは、初期歌詞を自分の生活記録として書いた一方、一部の聴き手がそれを行動の手本のように受け取ったと感じていると話している。Cro-Magsについて、Metal Archivesは『The Age of Quarrel』の盤面識別情報としてPRO-1218A/PRO-1218B等のマトリックス表記を掲載している。Parrisは『The Age of Quarrel』への反響後、街角やバー中心の生活から世界各地を回って演奏する生活へ急速に変わったと話している。また、1979〜86年に小規模だったシーンが拡大し、後にメタル側の大きな聴衆が流入したことがCro-Magsの活動拡大にもつながったという見方を述べた。MusicBrainzの1985年『Age Of Quarrel』デモ注記は、当時1000本が作られたとしている。

MusicBrainzでは『Everybody’s Gonna Die』を除く多くの1985年デモ曲について、作詞者をHarley Flanagan/John Joseph、作曲者をHarley Flanagan/Parris Mayhewとして登録している。MusicBrainzは1985年デモの『Everybody’s Gonna Die』について、個人名ではなくCro-Magsを作家として登録している。Popsikeに残る1986年初版盤の中古盤記録は、ジャケットとともに歌詞カード/中紙が付属していたと記載している。Popsikeの初版盤記録は『Lyrics by John Joseph and Harley Flanagan』と掲載している。Popsikeの初版盤記録は『Music by Parris Mitchell Mayhew and Harley Flanagan』と掲載している。

Metal Archivesは『The Age of Quarrel』の作品全体クレジットでEric Casanovaを歌詞担当として掲載している。Metal Archivesは『The Age of Quarrel』の写真担当としてAndre Grossmannを掲載している。Parrisはファンから『The Age of Quarrelが人生を変えた』という趣旨の言葉を何千回も聞いたと振り返っている。同資料は最初期ソロ・デモをRat Cage Recordsから、Beastie Boys、Agnostic Front、Young and the Uselessの初期作品と並行して発売する計画があったとしている。Darkside Recordsの中古盤情報はPRO-1218の1986年2nd pressについて『Censored』表記入りインナースリーヴ付属として掲載している。

Banana Recordの販売履歴にはPRO-1218の赤文字PROFILE盤で、インナースリーヴに『Censored』表記がない個体が掲載されている。Harleyは『Life of My Own』の歌詞をEric Casanovaと自分の2人で書いたと主張した。また、『World Peace』の歌詞をEric Casanovaと自分の2人で書いたと主張した。さらに、Eric Casanovaが自分と共に『The Age of Quarrel』の歌詞の大半を書いたと主張した。Maximum RocknrollのMRR #40(September 1986)はCro-Mags『The Age of Quarrel』LPのレビューを掲載し、ReviewerをTim Yohannan、LabelをProfile / Rock Hotelと記載している。

Harleyは当時のインタビューで『The Age of Quarrel』のミックスを気に入っておらず、いくつか変えたい点があると述べた。また、当時、第2作は9月に出るはずだという見通しを述べた。『Cash Box』1986年7月26日号は『The Age of Quarrel』をアルバム欄でレビューしている。同レビューは『The Age of Quarrel』のList価格を8.98ドルと掲載している。『Cash Box』は同作をCro-Magsの最初のリリースとして扱い、メタルとパンクの境界にある作品という趣旨で評している。

1986年米国盤として、通常販売盤とは別の白ラベル・プロモーションLP『The Age of Quarrel』PRO-1218-DJが現存する。白ラベル盤面には『Loaned For Promotional Use Only / Not For Sale』と明記されている。白ラベルSide Oneには『PRO-1218A-DJ』と印刷されている。同5CDボックスのバーコードは0803341543430。Cornell University LibraryのAfrika Bambaataa ヒップホップ・アーカイブは『The Age of Quarrel』をBox 223/SR-13260として所蔵し、PRO-1218、A面マトリクス PRO-1218-A-TAPEと記録している。

Howie AbramsはJohn RooneyとOccasional Irregularityを1984年末〜1985年初頭ごろに始め、ショー・レビュー、アルバム・レビュー、インタビュー等を掲載し、マチネーや他のショー会場で販売したという。1986年7月11日付『The Friday Morning Quarterback Album Report』のKXLU(Los Angeles)欄は、同局のADDSにCro-Magsを掲載している。『Billboard』1986年7月26日号のアルバムレビュー欄はCro-Mags『The Age Of Quarrel』を掲載し、Rock Hotel/Profile PRO-1218、プロデューサーChristopher Williamsonと記録している。同じ1987年Billboard特集は、Chris WilliamsonのRock HotelをProfile配給のレーベルとして説明し、その所属対象にCro-MagsとMurphy’s Lawを挙げている。1988年Billboardの業界記事はRock Hotelを『過去2年間Profile Recordsのdivisionだった』と説明し、Cro-Magsを同レーベルのロスターに含め、契約形態はRock Hotel単独またはRock Hotel/Profileの双方があったと記している。

1986年7月11日号『Radio & Records』は、Profile RecordsがChris WilliamsonのRock Hotel Recordsと「ロゴ契約(logo deal)」を結び、その対象としてCro-Mags、Murphy’s Law、Dischargeを挙げている。『Billboard』1986年5月3日号のNew Companies欄は、Profile RecordsがChris WilliamsonのRock Hotel Recordsを扱い、Cro-Magsのデビュー・アルバムが「5月1日発売予定」だったと報じている。1988年11月26日号BillboardはRock Hotel Entertainment Inc.を、Williamsonのレコード・レーベル、コンサート・プロモーション事業、マネジメント会社をまとめた「総称」と説明している。『Billboard』1987年7月4日号の訂正欄は、6月20日号でCro-Magsのレーベル所属を誤記したとして、「Cro-MagsのレコードはProfile/Rock Hotel Records向け」と明示的に訂正している。『The Age of Quarrel』のProfile Records米国カセット版はカタログ番号PCT-1218として現存し、Lambgoat Shopは「1986年オリジナル・カセット(PCT-1218)とインサート」と記録している。

Profile RecordsのCD版『The Age of Quarrel』はカタログ番号PCD-1218、バーコード015151121825として登録され、Metal Archivesはミラー刻印『MADE BY DISCTRONICS (H) W.O.11566-1 PCD1218』も記録している。Paul Elliottは、Sounds 1987年3月21日号p29のPaul Elliott評は、GWR盤『The Age Of Quarrel』(GWLP 9)を4つ星でレビューしている。Paul Elliottは、Elliottは同作の音を、狂ったようなスラッシュ・パンクと打撃的なメタルを混ぜたものとして評している。Paul Elliottは、Elliottは、曲を一気に駆け抜ける箇所と、テンポを落としてねじれたリフを煮詰める箇所がある一方、全体として多様性より激しさが優先されていると評した。Paul Elliottは、ElliottはCro-Magsのパンク性がスラッシュ色を上回ることが多いとし、『The Age of Quarrel』をExodusよりSex Pistols寄りだと評した。

Paul Elliottは、ElliottはCro-Magsの歌詞を、都市の荒廃と生存・闘争を扱うストリート色の強い物語として捉えている。Paul Elliottは、ElliottはCro-Magsのサウンドについて、Adrenalin O.D.やAgnostic Frontなどより強い打撃力があると評している。Paul Elliottは、Elliottは、ハードコアがカルト的な範囲を抜けて一般市場へ広がるならCro-Magsはその中心にいるだろう、という将来見通しを記した。Thrasher公式の1986年8月号アーカイブは誌面一覧に『Cro-Mags』を記録しており、1986年8月時点で同誌にCro-Mags関連掲載があったことを確認できる。Thrasher公式の1987年4月号アーカイブはCro-MagsをMusic Articlesの一つに挙げ、該当誌面を『The Age Of Cro-Mags』と索引している。


8. ライブ史――「We Gotta Know」をいつから演奏していたのか

ライブ史では、映像や音源の存在と、特定の日付に「We Gotta Know」を演奏した証拠を分ける。現時点で曲名と日付を直接結び付けて確認できる最古記録は1986年7月26日Wellington’sである。

John Josephは、Bad Brainsとのツアー時代を振り返り「本当の革命は自分の内側にある」と説明している。また、Blood ClotはBad Brainsのツアー中に、Bad Brainsのローディーたちで始めたバンドで、自分にとって最初のバンドだったと説明している。さらに、初期Cro-Magsが分かれた後、自分はHawaiiへ約1年間行ったと説明している。このほか、再編後はJohn、Harley、Mackie、Kevinの4人で、その後Doug Holland、Petey Hinesが加わったと説明している。加えて、ニューヨークで大規模ハードコア公演を行える会場が少なくなった理由として、観客の飲酒・喧嘩・近隣トラブルを挙げた。

John Josephは、1987年3月初旬頃から次作のpre-制作に入る予定だと説明している。また、HarleyからDisco Smoothiesで歌う誘いを受けたが、カバー曲をやることに興味がなく断ったと語っている。さらに、Cro-Magsへ戻った時期を1984年の初めとし、その前に約2年間寺院で過ごしたと説明している。このほか、自分が公演のブッキングを始め、実際にリハーサルを行い、ライブを重ねる方向へ進めたと主張している。Parris Mayhewは、新しい素材を試す目的で小規模なツアーを行ったと述べている。

Parris Mayhewは、そのツアーでHarleyが新曲を演奏したがらなかったと記憶している。また、『World Peace』などを書き始めた後、メンバーを探すため自作の募集フライヤーを作り、CBGBなどLower East Side周辺に貼ったと話している。John Josephは、別のインタビューで、自分がHare Krishnaの修道生活だった時期を1982年から1984年と述べた。Johnは、寺院生活を約2年経験した後、1984年のごく初めにCro-Magsへ戻ったと振り返っている。また、Harleyから『寺院を出てバンドへ戻れ』という趣旨で誘われ、当時歌っていたEric Casanovaがうまくいっていないと聞いたという。

Johnは、Don Furyのスタジオでの録音を『83年頃』に始め、その後『84年頃』にデモを出したと語っている。John Josephは、1983〜84年頃に多数のライブを行い、GBHとのツアーやBad Brainsとの共演を重ね、バンドへの地下シーンでの注目が高まったと語っている。Johnは、自分がCro-Magsのライブを各地でブッキングし始めたと述べている。John Josephは、最初のデモ・カセットを作った後、それを持ってツアーしたと記憶している。また、ライブでの反響が大きくなった後、Profile Recordsから契約の話が来たと話している。

Johnは、1987年のツアー中の金銭をめぐるHarley Flanagan、Doug Hollandとの対立が、自分がバンドを辞める直接の理由になったと主張した。Parrisは、Doug Hollandが『The Age of Quarrel』録音のかなり直前に加入したと回想し、「土壇場」「ぎりぎりの段階」という趣旨の表現を使った。Parris Mayhewは、『Crush the Demoniac』について、John Josephがまだ関わっていた時期に書かれたという前提を認めつつ、『The Age of Quarrel』より後に書いた曲だという。Harleyは、最初期デモの作曲・録音を1982年末に始めたと振り返っている。Johnは、Chris WilliamsonがCro-Magsを公演に出演させたという。

Johnは、その公演後にChris Williamsonが約束どおりの金額を払おうとしなかったと主張し、自分が支払いを求めて対峙したと語っている。また、その時期のツアーでは『The Age of Quarrel』収録曲を一通り演奏していたと説明する。さらに、ライブで『Crush the Demoniac』の自分が書いたとする元の歌詞を歌い、プレコーラスとコーラスも含めると説明している。Harleyは、Cro-Magsが実際に継続してライブ活動を行うバンドになったのは1984年頃だったと述べている。また、継続的に活動する前に一度ほど公演したが、その時はまだ完成していないと考え、Cro-Mags名義を使わなかったと記憶している。

Harleyは、StimulatorsがBad Brainsの最初期のニューヨーク公演を実現するのに関わったと主張した。Parrisは、Cro-Magsの最初期の数回のライブではEric Casanovaが歌っていたと話している。また、BloodclotはCro-Magsがライブを始めるより前にすでに演奏していたと振り返っている。Harleyは、NYHCで使われたX印はWashington, D.C.の全年齢ライブで未成年者の手に酒類販売防止の印として付けたXに由来し、その後ストレートエッジの若者が象徴として使うようになったと述べている。Johnは、Peteyについて『The Age of Quarrel』期のツアーで代役として参加したことがあったと話している。

Johnは、Bad Brainsの初期の生々しいカセット録音について、171 Studioで基本演奏をライブ録音し、その後に音を重ね、J.W. Leeがミックスしたと語っている。また、ハードコア以前からMax’s Kansas City、CBGB、Hurrah、Mudd Club、Great Gildersleevesなどでパンクのライブを見ていたという。Parrisは、『Riot Squad』がまだレコードになっていない時期からBad Brainsを何度も観ており、曲をよく知っていたと語っている。Johnは、Rock Hotelの公演後の支払いをめぐる対立でChris Williamsonに押されたため、自分も相手を壁へ叩きつける形で応じたと述べている。また、1981年のHarley、Dave Hahn、Dave Stein、自分という初期編成が、およそ4〜5か月で解散したと記憶している。

Johnはツアー中も毎朝5〜6マイル走り、トレーニングや運動を行い、食事にも気を配っていたと話している。また、『The Age of Quarrel』のカセットを出した後にツアーを始め、観客はレーベルではなくバンドを見に来るという自主的な姿勢で活動していたと振り返っている。Cro-Mags公式Bandcampは『The Age of Quarrel』の発売日を1986年9月16日と掲載している。HarleyはLittle Big Ballsについて、現存する録音やライブ音源はないという。また、CBGBが開店した年から通い始めたという。

HarleyはCBGB閉店時の最後期のライブにも出演したと語っている。また、1980年代以前のライブ録音について、デジタル環境がなく、無断録音が見つかれば問題になり得たため、現在より記録が残りにくかったという認識を述べた。さらに、初期Bad Brainsの音源だけを聴いた人の中には彼らがBlack 音楽iansだと知らず、実際のライブで初めて気づく人もいたと述べている。Johnは、MetallicaのメンバーがCro-Magsのライブを見に来ていたと記憶している。また、James Hetfieldが自身の最初のツアーでCro-Magsの帽子を着用していたと主張した。

JohnはJames Hetfieldが雑誌で、1987年に見た最高のライブとしてLaMourでのCro-Mags公演を挙げたと主張した。Harleyは当時、Cro-Magsが次のアルバムを制作中で、9月の発売を見込んでいると話した。また、当時、特に好きだった公演の雰囲気としてAustin, Texasの屋外公演を挙げ、夜空の下で演奏したことを印象的だったと説明する。Doug Hollandは、Krautでツアーをしていた時期にCro-Magsが形になりつつあったと話している。Dougは15歳頃からMax’s Kansas City、Mudd Club、CBGBなどニューヨークのクラブへ通っていたと振り返っている。

ParrisはCro-Mags録音でMarshall JCM800の100ワット・ヘッドを使用し、ライブでは通常2台のヘッドと2台のストレート型Marshallキャビネットを使ったと説明している。Mackieは子どもの頃にWoolworthで買った小さな玩具ドラムを与えられ、その後しばらく自分の本格的なセットを持たず、初期のライブでは他バンドのドラムを借りていたという。DougはKrautが結成から約3か月で、1981年6月11日にニューヨークのBondsでThe Clashの前座を務め、それがメンバー全員にとって最初の人前での演奏だったと語っている。ParrisはニューヨークのRitzで初めてCro-Magsがヘッドライナーを務めた公演を節目とし、その公演は多数組パッケージではなく前座2組だったと述べている。Mackieはライブだけでなくスタジオでの録音作業そのものが好きだと述べ、ドラム本来の音を捉えることを重視すると述べている。

Harleyは『Show You No Mercy』の一部の歌詞が、CBGB前で実際に起きた喧嘩の状況と結びついていたと話している。『Here’s To The Ink In Ya』の商品説明は、収録された5公演の音源がHarley Flanaganの個人アーカイブ由来だとしている。Harleyはこの初期編成でDanceteriaにてStimulatorsの前座を1回だけ行い、その際は『Disco Smoothie』という仮名を使ったと記憶している。また、Danceteria公演でCro-Mags名を使わなかった理由を、当時はまだCro-Magsとして表に出せる段階ではないと自分が判断していたため、と語っている。さらに、MackieがBad Brainsの大ファンで、Earl Hudsonの演奏をライブで繰り返し見ていたと話している。

Parrisは『Signs of the Times』の着想例として、Rushのライブ盤『All the World’s a Stage』に収録された『Anthem』の再開部分のリフを挙げた。同資料は最初期の公演を、1980年にPeppermint LoungeでStimulatorsの前座として行ったものだとしている。同資料は上記公演の編成をHarley=ベース、Dave Stein=ギター、Crucial TruthのLeo=ドラムとしている。同資料はPeppermint Lounge公演で、Harleyが直前にバンド名を『Disco Smoothy』という仮名へ変更したとしている。同資料はHarleyが、まだCro-Magsとして公に名乗れるほど準備ができていないと考えたため、仮名で公演したと説明している。

同資料はその1回の公演後、参加者がそれぞれ別の道へ進み、その編成が継続しなかったとしている。同資料は『Cro-Mags』名義で告知された最初の公演を1984年のCBGB公演だったとしている。同資料は上記CBGB公演をEric Casanova=ボーカル、Harley Flanagan=ベース、Parris Mayhew=ギター、Mackie Jayson=ドラムの編成だったとしている。同資料は上記CBGB公演でMackie JaysonをFrontlineから『借りた』形でドラムに迎えたとしている。ParrisはMackie、Harley、Johnとの編成で十分にリハーサルしたと感じた段階で、自分がCBGBの公演を予約したと振り返っている。

CBGB facade on Bowery New York
ニューヨーク、BoweryのCBGB。撮影は2005年。
Photo: Adicarlo at English Wikipedia / Wikimedia Commons / CC BY-SA 3.0

ParrisはHarleyの別編成によるDisco Smoothie名義の公演へ、Harleyと一緒に行ったという。また、ライブ活動が近づき曲数が必要になったため、最終的にHarleyが『Don’t Tread On Me』をCro-Magsへ加えることに同意したと語っている。さらに、CBGBでFrontlineのステージを見た際、知人だったMackieがドラムを叩いていることを初めて認識し、Frontline自体も気に入ったと述べている。HarleyはMotörheadとのツアーでおよそ50公演を共にしたと記憶している。また、Motörheadとのツアー中、彼らの公演だけでなくサウンドチェックも毎回見て学んだという。

Harleyは、自分たちがメタル・バンドと演奏し始めた頃は「スラッシュ」という言葉をあまり意識しておらず、Anthraxとのツアー頃にその呼称を強く耳にするようになったと話している。また、Cro-Magsは本質的にライブ・バンドであり、『The Age of Quarrel』は当時のライブほど良く録れなかったという自身の評価を述べた。Mackieは子ども用ドラムセットの後、長い間自分のセットを持たず、最初期のライブでも他バンドのドラムセットを借りて演奏したと振り返っている。Cornell University LibraryのJohan Kugelberg パンク collectionは、Box 27 Folder 1にCro-Magsの11×17インチのフライヤーを所蔵し、会場をCBGB’s、場所をニューヨーク、共演をNo Remorse/Violent Children/the Unwanted、主文を「Overkill presents Cro-Mags」と記録している。Cornell目録と出演者・図柄が一致するフライヤー現物画像には『SUNDAY MARCH 31 3PM』と『SEAN 85』が視認でき、1985年3月31日のCBGB公演資料として扱える。

Crumbsuckersのフライヤー/ポスター資料アーカイブは、1985年3月12日にManhattanのCBGB’sでCrumbsuckers、Cro-Mags、Brainbusterが出演した資料画像を掲載している。Crumbsuckersの資料アーカイブは、1985年5月27日にElmontのFebruary’sでCro-Mags、Crumbsuckers、Krakdown、Insanity Defense、Horror Planetが出演したフライヤーを掲載している。Crumbsuckersの資料アーカイブは、1985年9月22日にManhattanのCBGB’sでCro-Mags、Crumbsuckers、Ultraviolence、Ludichristが出演した資料を掲載している。No EchoはBad Brainsの復活公演を1985年7月19・20日のJane Street Rock Hotelとし、20日の前座をCro-MagsとP.M.S.と記録する。Andy Guidaも自分が観た最初のハードコア公演をP.M.S./Cro-Mags/Bad Brains、日付を1985年7月20日という。The Punk Rock Museum公開の手書きセットリストには1〜18まで18個の番号付き曲目枠が確認できる。

同セットリストには、後に『The Age of Quarrel』へ収録される曲名が少なくとも13曲、明瞭に確認できる(By Myself、It’s the Limit、Life of My Own、Don’t Tread on Me、Do Unto Others、Signs of the Times、Face the Facts、Street Justice、Survival、Malfunction、Hard Times、World Peace、Show You No Mercy)。同じ18枠のセットリストには『Seekers of the Truth』も確認できない。同セットリストには『Everybody’s Gonna Die』『Back to Square One』『12 X U』が明瞭に記載されており、後の『The Age of Quarrel』15曲とは異なる曲目も当日のレパートリーに含まれていた。No Echo掲載の当時フライヤー画像には、7月20日のCro-Mags/P.M.S.公演について113 Jane St.、Doors 9PM、入場料10ドル、当日券のみが確認できる。Andy Guidaは、この公演会場をManhattan西側のJane Street Hotelとし、ショー開催時にはそこを『Rock Hotel』と呼んでいたと語っている。

Nicola Lanzenbergの息子Davidは、1985年の会場をJane StreetのRock Hotel(Jane Hotelとも呼ばれた)とし、当時Arthur Weinsteinが運営していたと述べている。Yana Chupenkoは、Bad BrainsとCro-Magsと共演したRock Hotel公演をP.M.S.にとって非常に初期の重要公演として回想し、記事冒頭では同公演をバンド最初のライブと説明している。Yana ChupenkoはBad Brains/Cro-MagsとのRock Hotel公演を語る中で『1984年だった』と記憶している。Malcolm Tentの本人パフォーマンス・ログは、1985年7月21日にCBGBでIron Fist、Token Entry、Cro Magsと同じ公演に出演したと記録している。People’s Graphic Design Archiveは、1985年12月21日ニューヨークのRock Hotel公演広告としてMotörhead、Wendy O Williams、Stormtroopers of Death、Cro-Magsの出演を記録し、Connecticut Digital Archive由来のポスター画像を公開している。

同公演ポスターには『New York’s Only ROCK HOTEL AT THE RITZ』と明記され、Rock Hotel名義の公演がThe Ritzで行われたことを示す。同ポスターは会場所在地を『11th St. bet. 3rd & 4th Avenues』と記載している。同ポスターには開場21時、開演23時ちょうどと記載されている。Disc 1『CBGBs 09/22/85』には12トラックが列挙されている。同リリースのCBGBs 09/22/85 Disc 1は総収録時間23分29秒と記載されている。

CBGBs 09/22/85として発売された12トラックの曲目一覧には『Seekers of the Truth』が含まれていない。CBGBs 09/22/85として発売された12トラックの曲目一覧には『Face the Facts』が含まれていない。CBGBs 09/22/85として発売された12トラックの曲目一覧には『It’s the Limit』が含まれていない。Disc 2『CBGBs 07/05/86』には15トラックが列挙されている。CBGBs 07/05/86として発売された15トラックの曲目一覧には『Seekers of the Truth』が含まれていない。

CBGBs 07/05/86として発売された音源には『When Push Comes to Shove』が4曲目として収録されている。CBGBs 07/05/86として発売された音源には『Go Go Jam』が7曲目として収録されている。CBGBs 07/05/86として発売された音源には『Everybody’s Gonna Die』が13曲目として収録されている。GnuDBの『Live 85 86』は『CGBGs 0985』として15トラックを列挙し、Seekers of the Truth、Face the Facts、It’s the Limit、Push Comes to Shove等を含む。2022年5CDの09/22/85音源とは曲目構成が大きく異なる。同じ回答でHarleyは、その夜にいくつかの新曲を演奏すると述べた。

Harley個人アーカイブ由来5CDボックスのカタログ番号はBOBV913CDBX。『Here’s To The Ink In Ya』収録5公演はJohn Mitchellがリマスターしたと発売資料に記載されている。同5CDはOuthouse Studiosでリマスターされたと記録されている。発売元系商品情報は同5CDを合計78トラックと明記している。5CDのWellington’s ’86部分には16トラックが列挙されている。

Wellington’s ’86発売音源では1〜15曲目が『The Age of Quarrel』の15曲をアルバムと同じ曲順で並べている。Wellington’s ’86保存音源はAOQ15曲の後、16曲目に『Crush the Demoniac』を収録している。Voivodの1986年当時インタビューでAwayは、同年4月にニューヨークのThe RitzでVenomとCro-Magsと共演したと証言している。Voivod公式ツアー履歴はこの公演を1986年4月5日と記録する。Ed Farshteyは、The Book of Armageddon創刊号にVenom/Cro-Mags/VoivodのThe Ritz公演レビューを掲載したと話している。Ed FarshteyはThe Book of Armageddon #1が1986年晩春に出たと説明している。したがって、同号のRitz公演レビューは1986年4月5日の公演から比較的近い時期に刊行された資料である。

複数の後年ライブ記録は1986年7月11日にLong BeachのFender’s BallroomでCro-MagsがGBH公演に出演したと記録する。Cornell University LibraryのJohan Kugelberg パンク collectionにもFender’sでCharged G.B.H.とCro-Magsらを掲載した8.5×11インチのフライヤーが保存されている。Concert Archivesは1986年7月14日のRuthie’s InnにCro-Magsの個別エントリを置く。一方GBHの詳細年表は同日を『Agnostic Front/Cro-Mags』としつつ、実際にどちらが演奏したか不確実と明記している。Concert ArchivesのRiver Theater履歴は1986年7月15日にCro-Magsの個別エントリを置く。一方GBH年表は同日をAgnostic Front/Cro-Magsとし、どちらが演奏したか不確実と明記している。Concert Archivesとセットリスト.fmは1986年7月16日のSacramento・The OasisにCro-Magsを記録し、Concert Archivesには同公演に紐づく写真も登録されている。一方GBH年表はAgnostic Front/Cro-Magsのどちらが演奏したか不確実としている。GBHの詳細ツアー年表は1986年7月18日のPortland・Pine Street Theatre公演をGBH/Cro-Mags/The Accusedの組み合わせとして記録している。

GBH年表、Saint Vitus年表、Concert Archivesはいずれも1986年7月20日のVancouver・ニューヨーク TheatreでGBH/Cro-Mags/Saint Vitusの公演を記録している。GBHの詳細ツアー年表は1986年7月23日のCalgary・St. Mary’s Hall公演をGBH/Cro-Mags/Cruxesの組み合わせとして記録している。GBHの詳細ツアー年表は1986年7月25日のWinnipeg・Le Rendez-Vous公演をGBH/Cro-Mags/Corpus Vileの組み合わせとして記録している。Howie Abramsは、Occasional Irregularity創刊号をThe Ritzの外で売っていた際、Cro-MagsのParris Mayhew本人から『Age Of Quarrel』カセットをレビューしてくれたことへの礼を言われたと振り返っている。Ed Farshteyは1986年4月5日のThe RitzでVoivod/Cro-Mags/Venomを実見したと回想し、Cro-Magsが観客、とくにスキンヘッズを非常に激しく反応させていたと述べている。