



キューバを開放しようと2度に渡り奮起したM26(7月26日運動)発足からキューバ革命を経て、本当にフィデル・カストロがしたかったことがキューバでできていたのかは不明ですが、チェ・ゲバラと共にキューバ革命をやり遂げた英雄には変わらないのだと思います。
ゲバラのやりたかったこととカストロのやりたかったことには多少のズレがあったのかもしれませんが、指導者として革命家として一国を成り立たせたことは簡単なことではなかったことでしょう。
現在、チェ・ゲバラやフィデル・カストロ達の作った日本の本州の半分程度しかない貧しいカリブ海に浮かぶ発展途上の島国キューバ共和国は経済的には決して豊かではないのかもしれませんが、私達日本人はキューバの人々よりもはたして幸せなのでしょうか?
死ぬまで貧困な土地の人々達に身を寄せていた、そんなチェ・ゲバラが一体何をしてきたのか?革命家としての生涯を振り返ってみたいと思います。
チェ・ゲバラの名言に込められた貧しい人々に寄り添うキューバ革命カリスマの生涯!

エルネスト・ゲバラの幼少期~医学生時代
チェ・ゲバラの愛称で知られているチェは「やぁ」とか「ねぇ」という親愛を込めたアルゼンチン特有の話し方だそうで、キューバ人がその発音を面白がって呼び始めたのが由来。本名はエルネスト・ラファエル・ゲバラ・デ・ラ・セルナ。1928年6月14日生まれでアルゼンチン北部の街ロザリオにて、実業家の父と政治家の娘である母との間に経済的に満ち足りた暮らしをしていた。そんな環境の中でゲバラは何不自由なく暮らしていたかにみえたが、ゲバラは病弱で2歳の頃に喘息性気管支炎にかかる。頻繁に起こる発作のために学校も満足に通えなかったゲバラは教育熱心な母親に勉強を教わり、家にあった3000冊を超える蔵書を次々と読破した。19歳でアルゼンチンの最高学府の国立ブエノスアイレス大学医学部に進学。自分と同じ様に病気で苦しむ人を救おうと医師を目指したのだった。
ところがゲバラは将来を約束されたエリート人生に迷いを感じるようになる。23歳の時のこの頃、日記にこう書き残している。「僕は薬学研究所にも、病院にも、試験にもうんざりしていた」。退屈な日常にゲバラの視線はどこまでも続いている冒険の大空へと向けられていた。

ゲバラの同級生の兄で生化学者の友人アルベルト・グラナードとともにラテンアメリカの旅に出た。「この旅の大まかな方針 それは「行き当たりばったり」だ」。1951年1月4日1939年式ノートン500のオンボロバイク「ポデローサ(poderoso)2号」に僅かな資金でブエノスアイレスを出発する。ゲバラは初めての貧乏旅行で、これまで生きてきた環境とは全くの別世界を体感する。旅を始めて2ヶ月、チリである民家に立ち寄った時のこと。ゲバラは貧しい人々が住む地区で喘息患者を診察した。「この哀れなお年寄りは同情を誘うような状態にあって 濃厚な汗と汚い足の臭いが鼻をつき、この家で唯一の装飾品であるソファからホコリが舞う中で 息をしていた。」自分と同じ病気に苦しむ人、でもこの人は自分と違い貧しさのせいで薬を買うこともできない。ゲバラが目にしたのはラテンアメリカを覆う貧困という現実だった。ゲバラが旅した1950年代当時、ラテンアメリカ諸国では貧富の差が大きな問題となっていた。大地主や政治家といった一部の人だけが贅沢をしていて国民の殆どは恐ろしく安い賃金で、過酷な労働を強いられていたのだ。ゲバラは次第にこうした不平等な世界であえぐ人々に心を寄せていく。
2004年公開の映画「モーターサイクル・ダイアリーズ」の中でもこの一回目の貧乏旅行で南米の貧困層を目の当たりにしたゲバラとアルベルトの心境の変化が、描かれている
1960年にアルベルト・グラナードはゲバラから招待され、初めてキューバを訪れた。1年後、彼は家族を連れてキューバに移り、ハバナ大学の医学部で生化学の教授となった。同年には、基礎・予防医学研究所の創設者のひとりにもなっている。1962年、グラナードは同僚たちとともにサンチャゴ大学にキューバで2番目の医学部を創設し、1970年から1974年まで、上級教授として在職した。ゲバラの意志を受け継いでサンティアゴ医学校(Escuela de Medicina de Santiago de Cuba)を創設した人物である。
大学卒業後2回目の旅~ボリビア、グアテマラ、そしてメキシコへ





MNR(民族革命運動党)が中心となって鉱山労働者や国家警察部隊と結託してラパスにて武装蜂起し貧困に苦しむ民衆が武器を持って立ち上がり政治権力を奪い取るクーデターを決行。平等な社会を作るため戦っている最中だった。
「1953年7月24日付けの父への手紙」より「僕は激動の時代を迎えたボリビアに とても興味を持っています でもこの国では 他人が命を落としても関心を持たず 自分とは関係ないという態度を取る人が大勢います 傍観者である僕も その同類に過ぎません」







改革派政権は崩壊する。外国からの旅人にすぎないゲバラは、国外脱出するしかなかった。だがゲバラは、アルゼンチンには帰ろうとはしなかった。
フィデル・カストロとの出会い

1954年9月、向かったのはメキシコ。そこはラテンアメリカ各地から革命を志す物や亡命者が集まる地だった。視線の先にある何かに向けゲバラは一歩づつ歩み始めていた。









言論だけではこの国は変わらないと察したカストロは1953年7月、26歳の時に武器を取り若者たちを率いて軍の兵舎のモンカダ兵営を襲撃して武装蜂起。攻撃者の80人以上が死にカストロは逮捕され、カトリック司教の仲裁で死刑は免れたが、懲役15年が宣告され投獄された。1955年5月に恩赦によって釈放され、2カ月後にメキシコに亡命して活動を続けた。メキシコ亡命時代にはバティスタの意向を受けたメキシコ警察によって逮捕されたが、フィデルを見込んだメキシコ革命の大成者だった元大統領ラサロ・カルデナスの歎願によって釈放された。





「キューバをアメリカ人どもの侵略と搾取と抑圧から解放するには、武器を取って闘う以外、道はない!」人々を貧困から救う熱意に燃え、自信と大胆さに満ちたカストロ。その姿に打たれ共に闘うことを伝えるゲバラ。キューバにゆかりのないゲバラにカストロは訪ねた。「君が死んだ時は、誰に連絡すればいいんだ?」ゲバラは答えた「母親に」それは、貧困をなくす為の戦いに命を賭けるという決意の言葉だった。
M26再び革命を成し遂げるためにキューバへ

1956年11月25日、一隻の小さなヨット(グランマ号)がメキシコからキューバへと出航した。そこにはカストロが率いる82人の兵士が乗り込みゲバラも軍医として参加していた。




医者なのか、革命の戦士なのか

首都ハバナにあるキューバ革命博物館。ここに追い詰められた革命軍が形成を逆転する鍵となったものが展示されている。ゲバラが戦場で使った医療器具。歯を抜く抜歯器具、手術で使う鉗子、そしてピンセット。医師ではなく背戦士を選んだゲバラ。しかし、医療器具を再び手にすることが、戦いの行方を大きく変えてゆくことになる。カストロたちを殲滅しようとシエラ・マエストラに迫り来る政府軍2万人。



「私たち革命軍が拠点を離れる際に、チェは動けない負傷者のためにその場に残ってくれました。彼は政府軍が迫る中、ギリギリまで負傷者を手当してその生命を救い、後から隊列に合流したのです。」
そしてキューバ解放へ
人々の共感を集めた革命軍は、上陸直後の12人から半年後には、400人に増えていったのだった。1958年12月29日首都ハバナを目指す為、ゲバラは300人の兵を率いてキューバ中心部サンタクララに進撃。迎え討つ政府軍は6000人。






The Hippocratic oath(ヒポクラテスの誓い)


医の神アポロン、アスクレーピオス、ヒギエイア、パナケイア、及び全ての神々よ。私自身の能力と判断に従って、この誓約を守ることを誓う
この医術を教えてくれた師を実の親のように敬い、自らの財産を分け与えて、必要ある時には助ける。
師の子孫を自身の兄弟のように見て、彼らが学ばんとすれば報酬なしにこの術を教える。
著作や講義その他あらゆる方法で、医術の知識を師や自らの息子、また、医の規則に則って誓約で結ばれている弟子達に分かち与え、それ以外の誰にも与えない。
自身の能力と判断に従って、患者に利すると思う治療法を選択し、害と知る治療法を決して選択しない。
依頼されても人を殺す薬を与えない。
同様に婦人を流産させる道具を与えない。
生涯を純粋と神聖を貫き、医術を行う。
どんな家を訪れる時もそこの自由人と奴隷の相違を問わず、不正を犯すことなく、医術を行う。
医に関するか否かに関わらず、他人の生活についての秘密を遵守する。
この誓いを守り続ける限り、私は人生と医術とを享受し、全ての人から尊敬されるであろう!
しかし、万が一、この誓いを破る時、私はその反対の運命を賜るだろう。
首相フィデル・カストロの下での新しい国づくり

カストロと共にキューバ革命を成し遂げたゲバラですがその6年後、盟友カストロと別れる決意をします。お互いに唯一無二の存在だったのになぜゲバラは決意したのか。別れの手紙から1959年2月、首相に就任したカストロの下でキューバの新しい国づくりが始まった。




「新しい人間」という革命を成し遂げて悟った理想像




冷戦に巻き込まれていくキューバ共和国




祖国か死か 貧困の上に成り立つ先進国の生活水準




すれ違い、そして別れ

一行を笑顔で出迎えるカストロだが、アメリカとの友好関係を保てないと悟り、ゲバラが帝国主義的搾取の共犯者とみなしていたソビエト連邦へ接近した事が一因で、7日後にゲバラは姿を消し新たな革命の地を目指した。「4つの白い壁に囲まれるのはもう飽きた」と言って笑ったのが最後に聞いた言葉だったという。ゲバラは大臣の地位もキューバの市民権も放棄して新たな革命の地へと旅立った。世界の苦しんでいる人のために働く「新しい人間」となるために。カストロのもとにはゲバラからのメッセージが残されていた。
別れの手紙
Carta de despedida a Fidel Castro
[marzo 1965] Habana «Año de la agricultura»
Fidel:
Me recuerdo en esta hora de muchas cosas, de cuando te conocí en casa de María Antonia, de cuando me propusiste venir, de toda la tensión de los preparativos. Un día pasaron preguntando a quién se debía avisar en caso de muerte y la posibilidad real del hecho nos golpeó a todos. Después supimos que era cierto, que en una revolución se triunfa o se muere (si es verdadera). Muchos compañeros quedaron a lo largo del camino hacia la victoria.
Hoy todo tiene un tono menos dramático porque somos más maduros, pero el hecho se repite. Siento que he cumplido la parte de mi deber que me ataba a la Revolución Cubana en su territorio y me despido de ti, de los compañeros, de tu pueblo que ya es mío.
Hago formal renuncia de mis cargos en la dirección del Partido, de mi puesto de Ministro, de mi grado de Comandante, de mi condición de Cubano. Nada legal me ata a Cuba, sólo lazos de otra clase que no se pueden romper como los nombramientos.
Haciendo un recuerdo de mi vida pasada creo haber trabajado con suficiente honradez y dedicación para consolidar el triunfo revolucionario. Mi única falta de alguna gravedad es no haber confiado más en tí desde los primeros momentos de la Sierra Maestra y no haber comprendido con suficiente claridad tus cualidades de conductor y de revolucionario. He vivido días magníficos y sentí a tu lado el orgullo de pertenecer a nuestro pueblo en los días luminosos y tristes de la crisis del Caribe. Pocas veces brilló más alto un estadista que en esos días, me enorgullezco también de haberte seguido sin vacilaciones, identificado con tu manera de pensar y de ver y apreciar los peligros y los principios.
Otras tierras del mundo reclaman el concurso de mis modestos esfuerzos. Yo puedo hacer lo que te está negado por tu responsabilidad al frente de Cuba y llegó la hora de separarnos.
Sépase que lo hago con una mezcla de alegría y de dolor, aquí dejo lo más puro de mis esperanzas de constructor y lo más querido entre mis seres queridos… y dejo un pueblo que me admitió como un hijo; eso lacera una parte de mi espíritu. En los nuevos campos de batalla llevaré la fe que me inculcaste, el espíritu revolucionario de mi pueblo, la sensación de cumplir con el más sagrado de los deberes: luchar contra el imperialismo donde quiera que esté, esto reconforta y cura con creces cualquier desgarradura.
Digo una vez más que libero a Cuba de cualquier responsabilidad, salvo la que emane de su ejemplo. Que si me llega la hora definitiva bajo otros cielos, mi último pensamiento será para este pueblo y especialmente para tí. Que te doy las gracias por tus enseñanzas y tu ejemplo al que trataré de ser fiel hasta las últimas consecuencias de mis actos. Que he estado identificado siempre con la política exterior de nuestra Revolución y lo sigo estando. Que en dondequiera que me pare sentiré la responsabilidad de ser revolucionario Cubano, y como tal actuaré. Que no dejo a mis hijos y mi mujer nada material y no me apena: me alegra que así sea. Que no pido nada para ellos pues el Estado les dará lo suficiente para vivir y educarse.
Tendría muchas cosas que decirte a ti y a nuestro pueblo, pero siento que son innecesarias, las palabras no pueden expresar lo que yo quisiera, y no vale la pena emborronar cuartillas.
Hasta la victoria siempre. ¡Patria o Muerte!
Te abraza con todo fervor revolucionario
Che
「別れの手紙」 和訳文 (三好徹氏訳)
人は勝利を得るか 死ぬかだということを学んだのだ

1965年にゲバラがキューバを離れたことが発表された際に、、キューバのシンガーソングライターのカルロス・プエブラ(Carlos Puebla)(1917~1989)が1965年に発表した代表作「Hasta Siempre Comandante」はキューバ革命への功労に感謝する目的で作曲したものだが、その美しいメロディおよび韻によりキューバ国内外に広く知られることになった。発表から40年以上経過した現在でも、シルビオ・ロドリゲス (Silvio Rodríguez)やブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ(Buena Vista Social Club)、またナタリー・カルドン (Nathalie Cardone)などにより幅広く歌われている。なお、2009年の世界社会フォーラムでは、エクアドル共和国の第55代大統領(2007~)ラファエル・コレア(Rafael Vicente Correa Delgado)、パラグアイ共和国第37代大統領(2008 – 2012)で変革のための愛国同盟リーダーのフェルナンド・ルゴ(Fernando Armindo Lugo Méndez) 、ベネズエラ共和国第53代大統領(1999~2013)のウゴ・チャベス(Hugo Rafael Chávez Frías)およびボリビア多民族国第80代大統領(2006~)のエボ・モラレス(Juan Evo Morales Aima)の各大統領が熱唱している。
“Hasta Siempre Comandante” Carlos Puebla

新たなる革命の地へ




志の違いと温度差



失意の中ゲバラはわずか半年でコンゴを去る。コンゴへ同行したキューバ革命兵士ハリー・ビジェガスの話しによると「ゲバラは 失敗の責任は自分にあると落ち込んでいた がっくりとうなだれて 側に寄るのもはばかれるほどだった」「私は一体誰だったのか…」日記に綴られたこの言葉がゲバラの失意を物語っている。
英雄ゲバラの最期の別れ

1966年7月、ゲバラは1年3ヶ月ぶりに突然、キューバに帰国。国際社会から危険人物とみなされていたゲバラの帰国は、国民には極秘とされた。偽造パスポートの写真には特徴のある風貌をすべて隠した変装。革命軍の英雄ゲバラの面影はそこにはなかった。ゲバラの娘アレイダ・ゲバラさんによると、当時5歳だった彼女は父親との対面をこう語る。




あの時の、革命の鼓動をもう一度!



すでにボリビアに派遣され地下工作員として下準備を整えていたタニア(ラウラ・グチエレス・バウエル)の手筈で、ゲバラは現地の仲間と共に民衆を抑圧する軍事独裁政権に戦いを挑んだ。しかし、アメリカの支援を受けて、ゲバラのゲリラ戦法を吸収して世界最弱と言われたボリビア政府軍の進化していく戦略の前に苦戦。


ボリビアの民衆も最後までゲバラに味方することはなかった。信頼を置いていた5人の部下とタニアを失い追い詰められて1967年10月8日、1年近い戦いの後、ゲバラはついに政府軍に捕らえられた。そして、翌日銃殺。39歳の時だった。
「撃て、恐れるな!俺はただの男にすぎない!」

ゲバラの遺体は見せしめとして地元の住民たちに公開された。その目は閉じられること無く、どこまでも広がる空へと向けられていた。ゲバラの最期の言葉は、自分に銃を向ける若い兵士に発したものだと言われている。怯える若者に、ゲバラは叫んだ。「撃て、恐れるな!俺はただの男にすぎない」






ゲバラの名言まとめ

♦我々は、二つのべトナム、そして、三つのべトナム、さらに、数多くのべトナムをつくるべきであると主張すべきである。
♦グラナダ最後のカリフの母がその息子に言った。”お前が守ろうとしなかった都が亡ぶと言って、何も泣くことはないのだ”
♦バカらしいと思うかもしれないが、真の革命家は偉大なる愛によって導かれる。人間への愛、正義への愛、真実への愛。愛の無い真の革命家など想像出来ない。
♦私のことを冒険家というのなら、たしかにそうだ。しかし、私は違うタイプの冒険家だ。自分の真理を証明するためなら、命も賭ける冒険家だ。
♦祖国か、死か!
♦我々にとって社会主義の確かな定義は、”人間の人間による搾取の撤廃”以外にない。
♦一人の人間の命は、地球上で一番豊かな人間の全財産の百万倍の価値がある。隣人の為に尽くす誇りは、高所得を得るより遥かに大切だ。蓄財出来る全ての黄金よりも遥かに決定的でいつまでも続くのは、人民達の感謝の念だ。
♦人間はダイヤモンドだ。ダイヤモンドを磨くことが出来るのはダイヤモンドしかない。人間を磨くにも、人間とコミュニケーションを取るしかないんだよ。
♦国民の英雄たるもの、国民から遠く離れていてはいけない。高い台座に上って、国民の生活と無縁なところに収まるべきでない。
♦指導者とは、人が自分と同じところまで追いつけるように誘導するものだ。ただ言葉で強いるのでなく、後ろにいる人たちを力づけて、自分のレベルまで引き上げようとするのだ。
♦国民に意思を伝えるためには、国民の一人となって感じなければならない。国民の欲するもの、要求するもの、感じるものを知らなければならない。
♦酒は飲まない。タバコを吸う。女を好きにならない位なら、男を辞める。だからと言って、あるいはどんな理由であっても、革命家としての任務を全う出来ないのなら、僕は革命家を辞める。
♦僕を導くものは、真実への情熱だけだ。あらゆる問題について、僕はこの点から考える。
♦世界のどこかで誰かが被っている不正を、心の底から深く悲しむ事の出来る人間になりなさい。それこそが革命家としての、一番美しい資質なのだから。
♦今世界の他の国が、僕のささやかな力添えを望んでいる。君はキューバの責任者だから出来ないが、僕にはそれが出来る。別れの時が来てしまったのだ。喜びと悲しみの入り混じった気持ちで、こんなことをするのだ、と察して欲しい。僕はこの地に、建設者としての希望の最も純粋なもの、そして僕が最も愛している人々を残して行く……また僕を息子のように受け入れた国民からも去って行く、それは僕をとっても悲しい気持ちにするのだが。僕は、新しい戦場に、君が教えてくれた信念、我が国民の革命精神、最も神聖な義務を遂行するという気持ちを携えて行こう、帝国主義のあるところならどこでも戦うために、だ。
♦もし私達が空想家のようだと言われるならば、救い難い理想主義者だと言われるならば、出来もしない事を考えていると言われるならば、何千回でも答えよう、「そのとおりだが、我々にはできる!」。
♦私はキリストではないし、慈善事業家でもない。キリストとは正反対だ。正しいと信じるもののために、手に入る武器は何でも使って戦う。自分自身が十字架に磔になるよりは、敵を打ち負かそうと思うんだ。
♦どこで死に襲われようと、我々の戦いの雄叫びが誰かの耳に届き、我々の武器を取るために別の手が差し出され、他の人達が立ち上がるなら、喜んで死を受け入れよう!
