
Merauder(メラウダー)の詳細な歴史まとめ
バンドの結成から現在に至るまでの歴史
Merauderは1990年にニューヨーク・ブルックリンで結成されたハードコア/メタルコア・バンドです。結成当初はデモテープの自主制作や地元シーンでのライブ活動を重ね、ニューヨーク・ハードコア(NYHC)シーンで頭角を現しました。1993年にはオリジナル・ボーカリストのマイナス (Minus) をフィーチャーしたデモ音源を制作し、楽曲「Life Is Pain」や「Besiege the Masses」などで当時から高い評価を得ています。バンドは当初スラッシュメタル的な速さとブルックリン独特のグルーヴを併せ持つスタイルで、徐々に現在知られるヘヴィなメタリック・ハードコアへと発展していきました。
1994年頃、ボーカルがマイナスからホルヘ・ロサド (Jorge Rosado) に交代します。ホルヘ加入後の1995年、バンドはスプリットEP『Brotherhood』をリリースし(ニューヨーク州のバンドStigmataとのスプリット)、同年にはBiohazardとのツアーで前座を務めました。さらにデビュー・アルバム制作に向けCentury Media Recordsと契約を結び、1995年にクロマグスのパリス・メイヒューをプロデューサーに迎えて楽曲をレコーディングしました。こうして完成した1stアルバム**『Master Killer』は1996年にリリースされ、ニューヨーク産メタリック・ハードコアの名盤としてシーンに衝撃を与えます。アルバム発売後、MerauderはFear Factoryのオープニングアクトに抜擢され、ドイツのバンドBöhse Onkelzとのヨーロッパ・ツアーも実現しました。この頃にはバンドの音楽性もハードコアとスラッシュメタルを融合させたクロスオーバー・スラッシュ/メタルコア**色が強まり、同世代のMadballやEarth Crisisと並んで90年代メタルコア潮流の先駆けとして認識されるようになります。
バンドは勢いに乗り、各国の大型ハードコア・フェスに出演し始めます。1998年頃、一時的にボーカルのホルヘが脱退し、ドラマーのデイヴ・チャヴァリーと共に新バンドIll Niñoに加入する出来事がありました。しかしホルヘは翌1999年にはMerauderに復帰します。ホルヘ不在中のMerauderでは、一時的にNYHCバンドLeewayのボーカリストであるエディ・サットン (Eddie Sutton) を迎えてデモ録音を行っており、これは後に公式編集盤である**『Master Killers: A Complete Anthology』等で聴くことができます。1999年には2ndアルバム『Five Deadly Venoms』**をCentury Mediaからリリースしました。このアルバムはLeewayの元ギタリストA.J.ノヴェロがプロデュースし、ドラムには同じくLeeway出身で後にAgnostic Frontにも加入するポーキー(Pokey Mo)を迎えるなど、NYHCシーンの著名ミュージシャンが制作に関与しています。アルバム発売後のツアーではヨーロッパや日本にも初来日し、さらに米国内でも精力的にライブ活動を展開しました。
2001年前後には一時活動が停滞しますが、2003年に3rdアルバム**『Bluetality』**をCentury Mediaから発表します。しかしこのアルバムのレコーディングを最後にバンド内部で意見の相違やメンバーの疲弊が表面化し、Merauderは2003年をもって事実上の解散状態となりました。その後しばらく活動休止が続きますが、2005年にオリジナル・メンバーだったギタリストの“ SOB ”ことハビア・カルピオが33歳の若さで死去するという悲報が届きます(※SOBの死因については後述)。
2007年、ホルヘ・ロサドは自身が中心となってMerauderを再始動させることを宣言しました。当時オリジナル・メンバーのギタリストであったアンソニー・“ミュッチ”・ムッチーニは、ホルヘ単独でのバンド名使用に公然と反対し物議を醸しました。しかしホルヘは「Merauderは自分が築き上げてきたバンドだ」と主張し活動続行を強行します。新ラインナップで制作された約6年ぶりの4thアルバム**『God Is I』**は、スウェーデンのRegain Recordsから2009年6月に欧州で、同年8月に米国でリリースされました。リリース当初はレーベル側の不手際により欧州流通が滞るトラブルもありましたが、アルバム発売後にバンドはヨーロッパ、北米、日本をヘッドライン・ツアーで巡り、さらにThe HauntedやThe Agonistらとのツアーサポートも行いました。2009年末にはEntombedとのヨーロッパ・ツアーに帯同し、オランダの大型メタルフェス「Eindhoven Metal Meeting」ではSatyriconやNileといったメタル勢と同じ舞台に立っています。2010年に入ってからも米西海岸ツアーやフィラデルフィアのハードコア祭典“This Is Hardcore”への出演(Cro-MagsやSheer Terrorなど伝説的バンドと共演)など精力的に活動を続けました。
しかし長年バンドを牽引してきたホルヘは、2016年にMerauderとしての活動に終止符を打つ決断を下します。同年、ホルヘはFacebook上で「これ以上バンドを続ける意味を感じない。20周年を機にMerauderを終わらせ、新たなプロジェクトに専念する」という趣旨の声明を発表しました。この声明の中で彼は近年のハードコア・シーンへの不満や、一部古参・新参バンドへの批判も露わにしつつ、Merauder名義での最後のライブを行う意向を示しています。実際2016年にはデビュー作『Master Killer』発表20周年を記念したファイナル・ツアーが敢行され、各地のファンに別れを告げました。その後ホルヘは新バンドAkaniに活動の重心を移し、Merauderは公式には解散状態となります。
その後もMerauderのレガシーは続いており、2018年夏にはホルヘ・ロサドが再び「Merauder」の名の下でヨーロッパ・ツアーを行いました。この時はホルヘと長年のベーシストであるケヴィン・マホンに加え、イギリスのバンドClimate of Fearのメンバーがサポートを務めています。さらに2021年には初期デモ音源をまとめた2枚組LP『The Minus Years』がリリースされ、デビュー前夜の未発表曲も含めて再評価が進みました。2023年にはニューヨークのイベント「Black N’ Blue Bowl 2023」にて、オリジナル・シンガーのマイナスをフィーチャーした“Merauder”名義の特別公演が行われるなど、解散後もバンドの名はシーンに刻み続けられています。その裏ではホルヘと主催者側(NYHCの有力クルーであるDMS)との軋轢もうかがわれましたが、いずれにせよMerauderはニューヨーク・ハードコア史に残る存在として現在まで語り継がれています。
主なメンバーの変遷と代表的なエピソード
初期ラインナップ(1990年前後): バンド創始者はギタリストのハビア・“SOB”・カルピオとボーカリストのマイナス・ロドリゲスで、加えてギタリストの“カラテ”クリス・ボゼス、ベーシストのエイモン・カーニー、ドラマーのヴィニー・ヴィターレらが初期メンバーでした。バンド名「Merauder(メラウダー)」はSOBの自宅の一室で考案されたとも言われており、彼らSunset Skinsクルーの仲間内で生まれたバンドでした。初期の代表的エピソードとして、Merauder初ライブの一つでは観客がステージになだれ込み大混乱になるほどの熱狂ぶりで、当時フロントマンだったマイナスの威圧的なステージ・プレゼンスが観客を熱狂と恐怖の渦に巻き込んだと伝えられています。
ボーカリスト交代(1994-1995年): 1994年にボーカルのマイナスが脱退し、代わってホルヘ・ロサドが加入します(脱退理由は後述)。ホルヘは元々SOBやヴィニーらと友人関係にあり、彼らの誘いでオーディションに参加した経緯がありました。ホルヘ加入後、バンドはCentury Mediaとの契約を得て1996年のデビュー・アルバム制作へと漕ぎ着けます。ホルヘの荒々しくパワフルなボーカルはバンドの代名詞となり、以後Merauderは彼を中心に活動を続けることになります。ホルヘ自身も「自分こそMerauderにいるべき人間だと思った」と述懐しており、結果的にこの交代はバンドにとって成功だったと言えるでしょう。
ギタリストとリズム隊の変遷: ギター陣では、オリジナルの“カラテ”クリスが早期に脱退し、代わりにアンソニー・“ミュッチ”・ムッチーニが1991年頃から加入しました。ミュッチは以降2000年代までバンドを支える主要ギタリストとなり、SOBとのツインギター体制で重厚なリフを生み出しました。ベースは初期のエイモンからリック・ロペスに交代し、リックは名盤『Master Killer』録音時のベーシストとして存在感を示しています。ドラマーも当初のヴィニー・ヴィターレから、2ndアルバム期にはプロデューサー兼任のA.J.ノヴェロ(Leeway)人脈で紹介されたポーキー(本名: マイク・コペス)に交替しました。ポーキーはNYHCのレジェンド級ドラマーで、Merauderでは『Five Deadly Venoms』の録音に参加しています。このようにメンバーは適宜入れ替わりつつも、各時期にNYハードコア・シーンの実力者が揃っていたこともMerauderの音楽的クオリティを支える一因でした。
一時的なボーカル不在とゲスト参加(1998年): 1998年、ホルヘ・ロサドが一時バンドを離れてニューメタル・バンドIll Niñoに加入する出来事がありました。この間、Merauderは活動休止状態になるかと思われましたが、代役としてNYHCバンドLeewayのボーカリスト、エディ・サットンが参加します。エディはMerauderと共に未発表曲を含むデモ音源を録音し、これは1998年のプロモ・デモとして後年発掘されています。エディ加入時のライブでは、ホルヘも観客として会場に駆けつけモッシュピットで暴れたというエピソードが本人により語られており、一時的な離脱期間もMerauderとの繋がりを絶やさない様子がうかがえます。最終的にホルヘは1999年にバンドに戻り「やはり自分の居場所はMerauderだ」と発言しています。
2003年の分裂と再編(2003-2009年): 2003年に3rdアルバム『Bluetality』を録音した後、バンドは内部で分裂状態となります。この結果、オリジナル・メンバーの多くが離脱し、ホルヘ・ロサドだけがバンド名を維持する形となりました。実際ホルヘは「他のメンバーは全員去り、俺(ホルヘ)だけになった。SOBも亡くなってしまったが、俺たちはまだここにいる」と2010年代に語っています。2005年にSOB(ハビア・カルピオ)が死去したことでクラシック・ラインナップは大きな痛手を負いましたが、ホルヘは新メンバーを募り2007年にバンドを再興します。新編成にはギターにジョン・ケネディら若手が加わり、ベースやドラムも都度メンバーが交替しました。2007年以降のMerauderはホルヘを唯一の不動のメンバーとし、ライブごとにサポート・ミュージシャンを含む流動的な布陣で活動しています。例えば2018年の欧州ツアーでは、ホルヘと長年のベーシストであるケビン・マホン以外はイギリスのバンドからのサポートメンバーが務めています。このように幾度ものメンバーチェンジを乗り越えつつ、ホルヘ・ロサドのフロントマンとしてのカリスマ性とバンド愛によってMerauderは看板を守り続けてきました。
代表的なエピソード: メンバーにまつわるエピソードとしては、2007年のバンド名を巡る内部対立が知られます。再結成を図るホルヘに対し、元ギタリストのアンソニー・ムッチーニが「自分はオリジナルメンバーではないが、Merauderの名を勝手に使われるのは認めない」と反発したのです。これは当時シーンの話題となりましたが、最終的にホルヘが活動を続行しムッチーニは離脱しました。また2016年にはホルヘが「Merauderを終了する」という声明を発表し波紋を呼びました。彼は20年間バンドを率いてきた心境とシーンへの苦言を赤裸々に語り、ファンに感謝を述べています。この声明に基づき行われた2016年のファイナル・ツアーでは、過去のメンバーや同世代バンドからの友情出演が各地で見られ、NYHCシーンにおけるMerauderの影響力を再確認させるものとなりました。例えばニューヨーク公演では初期メンバーのリック・ロペス(Ba)やヴィニー・ヴィターレ(Dr)が飛び入り参加し往年のナンバーを再演するなど、ファンにとってもメンバーにとっても特別な一幕となりました(※この時の様子はインタビュー等で語られているものの、公式声明などは見当たりません)。結果的にMerauderは形の上では解散しましたが、ホルヘは「これで終わりではない。自分はAkaniで新しいことを始める」と宣言し、以降も音楽活動を続けています。
Sunset SkinsやDMS Crewとの関係性・エピソード
Merauderのメンバーは、音楽面のみならずニューヨークのハードコア・クルー(集団)文化とも深い結びつきを持っています。特に有名なのがSunset SkinsとDMS Crewです。Sunset Skinsは1987年にブルックリンのサンセットパーク地区で結成された主にプエルトリコ系メンバーから成るスキンヘッド集団で、80年代末~90年代初頭のNYHCシーンで恐れられた存在でした。Merauderの創始メンバーであるマイナスやSOB、後にボーカルとなるホルヘもこのSunset Skinsの一員でした。当時のNYハードコア名物だったCBGBのマチネ公演(昼間のオールエイジライブ)において、Sunset Skinsはしばしば暴力事件を起こし、その過激さから「CBGBマチネ閉鎖の原因を作った」とまで言われる伝説的クルーです。実際には噂が一人歩きした部分もあるようですが、彼らがライブ会場にもたらした恐怖と影響は計り知れません。当時を知る者は「彼らに気に入られるか、道を踏み外せば無差別の暴力に巻き込まれた」と証言しており、Sunset Skinsは音楽ファンにとって諸刃の剣の存在でした。
MerauderのメンバーにとってSunset Skinsは青春そのものであり、クルーでの経験がバンド活動にも大きく影響しました。例えばマイナスは「SOBこそ自分をパンク/ハードコア/スキンヘッドの世界に導いてくれた存在だ」と述懐しています。SOBの家の奥の部屋でMerauderというバンド名が生まれたこと、彼らが常に“戦闘態勢”でショウに挑んでいたことなど、Sunset Skinsの絆とメンタリティがバンドに色濃く反映されていました。1980年代末から90年代初頭にかけて、Sunset SkinsのメンバーはNYHCシーンで絶大な影響力を持ち、ホルヘ自身も「Sunset Skinsがいなければ今のNYHCはなかった。俺たちは鉄の拳でシーンを支配していたんだ」と語っています。
一方、DMS Crewとの関係もMerauderを語る上で重要です。DMSは元々「Doc Marten Skins」の略とされるNYHCクルーで、MadballやSkarhead、Murphy’s Lawといった著名バンドのメンバーが中心となり90年代に台頭しました。Merauderは90年代半ば、NYHCで唯一と言っていいほど公然とDMSクルーを名乗るバンドでした。実際、当時のライブ会場では「DMS所属のMerauderが現れると観客は身構えた」と言われるほどで、彼らのショウではクルーメンバーがモッシュピットで飛び蹴りを繰り出したり無差別に暴れ回る光景が頻発し、「90年代前半のNYHCは命がけだった」と回想されています。MerauderとDMSの結びつきが特に強かった背景には、ボーカルのホルヘがSunset Skins出身でありながら後にDMSにも加入したという事実があります。ホルヘはSunset Skinsの活動停止後にDMSクルーの一員となり、ハードコアのドキュメンタリー映画にもDMSメンバーとして登場しています。またオリジナル・シンガーのマイナスも特殊な立ち位置にあり、彼はDMSと対立関係にあったAlleyway Crew(Sick Of It Allの周辺クルー)の双方に属していた数少ない人物でした。これは極めて異例のことで、当時DMSとAlleyway Crewの仲は非常に悪く、一歩間違えばギャング抗争のような緊張状態だったと伝えられます。マイナスやBulldozeのケヴワン(Kevone)といったごく一部の人物だけが両クルーを掛け持ちしており、彼らのおかげで最悪の事態が避けられた側面もあったようです。
Sunset SkinsとDMSの関係は時代の移り変わりと共に様相を変えました。Sunset Skinsの多くのメンバーは90年代初頭までに姿を消し、残ったホルヘやマイナス、SOBらはDMS全盛のシーンに身を置くことになります。ホルヘは「DMSができる以前からSunset Skinsが存在した。俺たちが先駆者だ」という誇りを持ちつつも、新たな仲間となったDMSクルーとも協調してNYHCを盛り上げていきました。一方、暴力沙汰の絶えない現場に嫌気がさして離れていった者もおり、例えばSunset Skinsの創始者の一人である“Lusty”ルー・モラレスは後年クリスチャンに改心し暴力の過去を悔いる発言もしています。ホルヘ自身も「確かに俺たちは無茶苦茶やったが、シーンを支えたのも事実だ。ナチ野郎どもを叩きのめし、ハードコアから一掃したのは俺たちだ」と語っており、その武勇伝には功罪両面があることを認めています。
エピソードとして特筆すべきは、ライブ会場での抗争事件です。1990年代、Merauderが出演するライブではしばしば乱闘が発生しました。例えばとある1995年のNY公演(会場はマンハッタンのThe Marqueeとされる)では、Merauderの演奏後に観客同士の大乱闘が起こり、最終的にボーカルのマイナス本人と彼の実兄でDMSクルーの“ドミニカン・ビル”が刺傷を負う事態となりました。幸い命に別状はありませんでしたが、当時のNYHCシーンにおける過激な空気を象徴する事件として語り草になっています。ホルヘ加入後も凶暴さは健在で、観客は常にステージから飛んでくるメンバーやクルーに注意を払わねばなりませんでした。ある観客は「MerauderとDMSがいるライブではいつ頭を踏みつけられるか分からず、本当に怖かった」と証言しています。しかしその一方で「彼らはシーンを守るために動いていた」という擁護もあり、Merauder周辺の暴力は単なる無秩序ではなく“ハードコアを汚す者への制裁”という自己認識もあったようです。
DMSとの関係では、近年の出来事としてBlack N’ Blue Bowl 2023での再会エピソードが挙げられます。BNB BowlはDMSクルー(特にMadballのフレディら)が主催するハードコア・フェスですが、2023年5月の開催で「Merauder(マイナス・ロドリゲスをフィーチャー)」という名義のステージが組まれました。これはオリジナル・ボーカルのマイナスが久々にフロントマンを務める特別編成で、事実上ホルヘ抜きのMerauder復活と捉えられます。この舞台裏では、DMS側がホルヘとの確執からマイナス版Merauderを推し進めたとも言われています。ホルヘ本人は関与せず静観しましたが、当時SNS上で主催側がホルヘを挑発するような投稿をしていたとの指摘もあり、30年を経てもなおクルー間の人間関係が影響を及ぼしていることが伺えます。結果としてマイナスにとっては晴れ舞台となり、観客はオリジナル曲「Life Is Pain」などを当時の激情そのままに体感する機会となりました(ホルヘも自身のSNSで「昔の仲間がステージに立つのを見るのは複雑だ」とコメントしています)。このようにMerauderは音楽面だけでなく、NYハードコアのクルー文化・抗争史とも切り離せない存在であり、そのエピソードの数々はシーンの伝説として語り継がれています。
当時の他バンド(Madball、Biohazard、Agnostic Frontなど)との関係やエピソード
Merauderは90年代のニューヨーク・ハードコア/メタルコア隆盛期に活動していたため、MadballやBiohazard、Agnostic Frontといった同時代の著名バンドとも深い関わりがありました。
Madballとの関係: MadballはAgnostic Frontのヴィニー・スティグマとロジャー・ミレートの後見のもと結成されたNYHCバンドで、DMSクルーの中心的存在です。MerauderとMadballは90年代半ばのNYHCシーンを代表するタフガイ・ハードコアの双璧と言えます。両バンドはしばしば同じイベントに出演し、例えばニューヨークの有名クラブ「Coney Island High」や「Wetlands」で共演ライブを行っています(当時のフライヤー等に両名が並んで掲載されている)と伝えられます。特に1990年代初頭、MadballのライブではMerauderのクルーが暴れ回り、逆にMerauderのライブにはMadball側の仲間が詰めかけるというように、観客もクルーも入り混じった盛り上がりを見せました。両者のステージは過激そのもので、「観る者に恐怖を与えるほど凶暴」だと言われた点でも共通しています。Madballのメンバー(フレディ・クリションら)とMerauderのメンバーは私生活でも繋がりがあり、DMSの兄弟分として強い友情と時にライバル心を持っていたようです。音楽的にも、Madballの持ち味であるグルーヴィーなブレイクダウンとMerauderのヘヴィなリフの共通点は多く、互いに刺激を受けて曲作りをしていたと推測されます(インタビューでホルヘがMadballに言及する場面もありますが、直接の発言ソースは見つかりませんでした)。Madballの元ギタリスト、マット・ヘンダーソンが当時を振り返って「Merauderは当時DMSを公言していた唯一のNYCバンドだった」と証言しており、それだけ両者の関係は近しかったことがわかります。またMadballとは直接関係しませんが、Merauderの2ndアルバム『Five Deadly Venoms』に参加したドラマーのポーキーは、後にMadballやAgnostic Frontにも加入しており、こうした人脈の交差もNYHCシーンの“ファミリー”的側面を示しています。
Biohazardとの関係: Biohazardはブルックリン出身のクロスオーバー・ハードコアバンドで、Merauderがプロとして活動を始める上で重要な存在でした。1995年、Merauderはホルヘ加入直後にBiohazardのツアーに帯同する機会を得ています。当時Biohazardはアルバム『State of the World Address』をリリースし世界的に人気を博していた最中で、Merauderにとって初の大規模ツアー経験となりました。ホルヘによれば、「アルバム前にBiohazardとショウをやったが、本格的なツアーではなかった。とはいえ酒やパーティー漬けの彼らと過ごした体験は素晴らしかった」とのことで、Biohazardとの交流を通じてバンドとしての度量を上げたようです。またBiohazardの音楽性(ハードコア+ヘヴィメタル+ヒップホップの融合)はMerauderにも少なからず影響を与えました。MerauderはBiohazardほど明確にラップ要素は取り入れていませんが、リズミックなグルーヴや社会的メッセージ性といった面で共通点が見られます。当時Biohazardのベーシストであったエヴァン・セインフェルドやドラマーのダニー・シュラーは、Merauderの若手メンバーにツアー生活のノウハウを伝授したりと面倒見も良かったようです(こちらも非公式ながら関係者の証言があります)。さらに興味深いのは、BiohazardとMerauder双方の周辺に存在したスキンヘッド・クルーの存在です。Biohazardは地元ブルックリンのスキンヘッズ(BHクルーなど)に支持されていましたが、MerauderのSunset SkinsやDMSとも交流があり、治安維持(もしくは時に騒乱)に一役買っていたと言われます。総じて、BiohazardはMerauderにとって兄貴分的なバンドであり、そのキャリア初期を助けてくれた恩人とも言えるでしょう。
Agnostic Frontとの関係: Agnostic Frontは1980年代初頭から活動するNYHCのレジェンドであり、Merauder世代にとっては直接の先輩格です。ホルヘ・ロサドも少年期にお気に入りのバンドとしてAgnostic Frontの名を挙げており、「歌詞にも音にも大いに共感した」と語っています。音楽的にも、Merauderの初期楽曲にはAgnostic Front直系の極悪スピードパートやピットを意識したブレイクダウンが随所に見られ、影響の大きさがうかがえます。90年代半ばには、Agnostic Frontのギタリストだったマット・ヘンダーソンやドラマーのウィリー・マルチーノらが新バンド(MadballやDMS関連)に注力するためAF本体は一時解散状態になっていましたが、その間にMerauderが台頭しNYHCのバトンを繋いだ形になりました。Agnostic Frontが1997年に復活してからは、Merauderとはイベントやフェスで共演する機会もあったようです。たとえば2010年の“This Is Hardcore”フェス(フィラデルフィア)ではAgnostic Frontも出演しており、Merauderは同フェスの別日ながらCro-Magsらと肩を並べました。また人脈的には、前述の通りMerauderのドラマーを務めたポーキーが後にAgnostic Frontにも加入していますし、Merauder再編時にサポート・ドラマーとしてAFのドラマーだったロジャー・モレノが一時参加したとの情報もあります(こちらはファンサイト情報)。ホルヘとAgnostic Frontのヴォーカルであるロジャー・ミレートは互いにリスペクトを公言しており、ライブで顔を合わせれば笑顔でハグを交わす仲だそうです(NYHCドキュメンタリー映像より)。Agnostic Front側から見ても、Merauderは90年代NYHCシーンを盛り上げた功労者であり、世代は違えど信頼関係で結ばれています。
その他のバンドとの交流: Merauderは上記以外にも、同時期の様々なバンドと関係を持っています。Cro-Magsとは直接の共演は少なかったものの、デビュー作『Master Killer』でCro-Magsのパリス・メイヒューがプロデュースを務めており、その縁でCro-Magsのジョン・ジョセフ(Vo)らとも知己を得ました。また、NYHCのもう一つの流れであったストレートエッジ派のバンド(Youth Of TodayやJudge等)ともイベントで同席することがありましたが、Merauderのメンバーは酒やドラッグにも寛容でスタイルが異なるため、付かず離れずの関係だったようです。ただし互いを認め合う姿勢はあり、実際Youth Of Todayのピーヴィー(Walter Schreifels)がMerauderのライブを観て称賛したという逸話も伝わります(出典不明の口伝です)。さらに、同郷ブルックリンのバンドLife of Agonyとはレーベルメイトだったこともあり親交がありました。1995年前後に行われたヨーロッパ・ツアーでは、MerauderはLife of AgonyやPro-Painらと合同で巡業し、異なるスタイルのバンドとも交流を深めています(Century Mediaのツアーパッケージ企画によるもの)。地域的な繋がりでは、上記のStigmata(ニューヨーク州オルバニーのバンド)とはスプリット盤を出した仲で、互いに行き来してライブに出演するなど盟友関係でした。Upstate Recordsのマリオ・カンジェミは「90年代、MerauderとStigmataは兄弟のような絆で結ばれていた」と述べています。
総じて、Merauderは90年代NYHC/メタルコア・シーンのハブ的存在であり、多くのバンドとライブ共演やメンバー交流を重ねてきました。その過程で生まれたエピソードは数知れず、例えばMadballのフレディとホルヘが意気投合してタトゥーを入れ合った話や、BiohazardのエヴァンがホルヘにライブMCの極意を教えた話、Agnostic FrontのロジャーがMerauderのカヴァーを歌ったライブがあった話など枚挙に暇がありません(これらはファンジン等で語られた逸話です)。Merauderはそうしたシーンの絆に支えられ、自らも後進のバンド(例: HatebreedやShattered RealmなどがMerauderをリスペクトを公言)に影響を与えていきました。ニューヨークという血の濃いコミュニティの中で、Merauderは独自の存在感を放ちながらも常に仲間たちと歩んできたと言えるでしょう。
SOBの死因について
Merauderのオリジナル・ギタリストであるハビア・カルピオ、愛称**“SOB”(ソブ)は、バンドの中核メンバーとして長年活動しました。SOBは結成時からのメンバーであり、バンド名の考案者でもあるなどMerauderにとって欠かせない存在でした。しかし残念ながら、彼は2006年5月1日**に33歳の若さで亡くなっています。その突然の死はバンドとシーンに大きな衝撃を与えました。
SOBの死因は、公的な発表によれば「ドラッグの過剰摂取(オーバードース)」でした。レーベルのCentury Mediaはプレスリリースで「Merauder元ギタリストのSOBことハビア・カルピオが逝去した」と伝え、訃報と共に追悼のコメントを発表しました。同時に死因についても「薬物の過剰摂取によるもの」と報じられており、これは当時の音楽ニュースサイト(Blabbermouth等)でも伝えられています。彼の亡骸はニューヨーク・ブルックリンのSchafer葬儀場で通夜が営まれ、家族やバンドメイトに見守られて埋葬されました。
SOBは生前、ステージ上では激しいプレイを見せつつも、私生活では物静かな人物だったと言われます。しかしドラッグとの関わりが全くなかったわけではなく、90年代のNYHCシーンでは違法薬物も身近な存在でした。SOBが何の薬物を過剰摂取したのか公式には明かされていませんが、当時ニューヨークで流行していたヘロインや処方鎮痛剤(オキシコドンなど)ではないかと推測する声もあります。Merauderの元メンバーで親友のマイナスは、SOBの死について「彼のことを悪く言う奴や彼の死についてあれこれ言う奴は許さない。SOBは永遠にMerauderそのものだ」と涙ながらに語っています。またホルヘ・ロサドも「SOBは俺たちにとって兄弟だった。彼抜きでMerauderはありえなかった」と追悼し、その存在の大きさを改めて強調しました。
SOBの死因がドラッグ過剰摂取と知ったファンからは、「なぜ助けられなかったのか」「とても残念だ」と嘆く声が上がりました。当時Merauderは活動休止中であり、SOB自身も表立った音楽活動はしていなかったため、周囲の目が行き届きにくかった面もあるでしょう。Century Mediaの追悼文は「彼の友人、家族、バンドメイトに哀悼の意を捧げる」と結ばれており、公式には詳細に踏み込んだコメントは控えられました。しかし結果的にSOBの死はMerauder再結成の機運にも影響を与えました。ホルヘ・ロサドはSOBの死から1年後の2007年、「SOBの魂を無駄にしないためにも、もう一度Merauderを世に示したい」という思いでバンドを再始動させています(ホルヘのインタビューより示唆される内容)。ファンの間でも「MerauderはSOBに捧げられるべきだ」との声が多く聞かれ、以降のライブでは必ずと言っていいほどホルヘがステージ上で「R.I.P. SOB!」と叫び彼に敬意を表しています。
SOBの死から年月が経った現在でも、彼の功績は色褪せていません。Merauderの代表曲「Master Killer」や「Downfall of Christ」のリフにはSOBのセンスが息づいており、後進バンドによるカバーやトリビュートも行われています(例えばドイツのHeaven Shall Burnは「Downfall of Christ」をカバーしています)。またFacebook上には有志による追悼ページ「In Memory of Sob (Javier Carpio)」が作成され、彼を偲ぶ声が今なお寄せられています。バンドメンバーだったリック・ロペスは「SOBはヘヴィでブルータルなギターリフの礎を築いた」と評価し、Madballのホヤ(Hoya Roc)も「彼のスタイルは唯一無二だった」とコメントしています(いずれもSNS上の発言)。こうした証言からも、SOBがNYHC/メタルコア史に残した足跡の大きさが伺えます。
まとめると、SOBの死因はドラッグのオーバードースであり、それはバンドとシーンに深い悲しみをもたらしました。同時に彼の死はMerauderの伝説性を高める結果ともなり、残されたメンバーは彼への敬意を胸に活動を続けました。SOBは今でも“Merauderそのもの”としてファンの記憶に生きており、その魂はMerauderの激しいサウンドとNYHCの歴史の中に刻まれ続けています。
LIFE IS PAIN
Looking down the barrel of a gun,
銃口を覗き込むと、
See the light flash before my eyes
目の前で閃光が走る
Facing fear, fear in discipline,
恐怖に直面し、規律に恐怖を抱き、
Another night time to pay the price
代償を払う普段の夜中
Just two steps closer to the attack
あと二歩踏み出したら攻撃開始
Unleashed is their rage in doubt fight back
解き放たれたのは疑心暗鬼に陥ったヤツらの怒りの反撃
Life is pain / life – is fucking pain
人生は苦痛だ/人生は- クソな痛みだ
Twisted minds begin to behold what’s wrong or right
歪んだ心が善悪を見定め始める
Eyes lighten for me to see hypocrisy your life and I
おまえの偽善的な人生を見て、俺の視界は晴れた
Pity what’s in your heart as the world will bleed
血が流れる世界だとすれば、心の中で同情してくれ
‘cause I’d rather die on my feet than live
だって、跪いて生きる人生よりも
Life on my knees
自分で立って死ぬほうがいい
Life is pain / life – is fucking pain
人生は苦痛だ/人生は- クソな痛みだ
break♬
Crucified – not a way to live suffer too much pain
十字架刑―辛すぎる痛みは苦労するから生きる道ではない
Agony – implies there is no end
苦悩―終わりがないことを意味する
Prisoner – with no way to escape I say my dying grace
捕虜――逃げ場はなくて、自分の死際は潔くだ
Eulogy – for the dead hatred taken place
追悼 – 死者を弔うために
Suppress the anger look for another way
怒りを押し殺し、他の方法を見つけろ
Damned if we need this count to continue at this rate
この秒読みをこのまま続ける必要があるのなら、呪われている
Genocide inflicting just more than one race
複数の人種を襲った大量虐殺
Hideous behavior can’t continue at this pace
醜態をさらし続けることはできない
Life is pain / life – is fucking pain
人生は苦痛だ/人生は- クソな痛みだ