チェ・ゲバラ、ジョン・レノン

チェ・ゲバラ、フィデル・カストロ

サンパウロ時事にて2016年11月25日の夜に90歳で死去との報道が入りましたが、とても長く生きられた方だったんですね。

チェ・ゲバラ、キューバ革命、3ペソ札

チェ・ゲバラ、ジョン・レノンチェ・ゲバラ、モンテクリストno.4

1959年のキューバ革命の最高司令官だったフィデル・カストロ前国家評議会議長は、かの有名なキューバ3ペソ札の人物であり、ハバナのテーブルワインとも言われる葉巻モンテクリストNo.4を好んだ、当時ジョン・レノンが世界で最もカッコいい男と絶賛したアルゼンチン出身の医師だったチェ・ゲバラと共に戦った反米主義を掲げる「革命の英雄」として全世界に多大なる何かしらの影響を与えた存在であることは確かなので、また一時代が終わったという感じがします。

キューバを開放しようと2度に渡り奮起したM26(7月26日運動)発足からキューバ革命を経て、本当にフィデル・カストロがしたかったことがキューバでできていたのかは不明ですが、チェ・ゲバラと共にキューバ革命をやり遂げた英雄には変わらないのだと思います。

ゲバラのやりたかったこととカストロのやりたかったことには多少のズレがあったのかもしれませんが、指導者として革命家として一国を成り立たせたことは簡単なことではなかったことでしょう。

現在、チェ・ゲバラフィデル・カストロの作った日本の本州の半分程度しかない貧しいカリブ海に浮かぶ発展途上の島国キューバ共和国は経済的には決して豊かではないのかもしれませんが、私達日本人はキューバの人々よりもはたして幸せなのでしょうか?

死ぬまで貧困な土地の人々達に身を寄せていた、そんなチェ・ゲバラが一体何をしてきたのか?革命家としての生涯を振り返ってみたいと思います。

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チェ・ゲバラの名言に込められた貧しい人々に寄り添うキューバ革命カリスマの生涯!

エルネスト・ゲバラの幼少期~医学生時代

チェ・ゲバラ、キューバ革命

チェ・ゲバラの愛称で知られているチェは「やぁ」とか「ねぇ」という親愛を込めたアルゼンチン特有の話し方だそうで、キューバ人がその発音を面白がって呼び始めたのが由来。本名はエルネスト・ラファエル・ゲバラ・デ・ラ・セルナ。1928年6月14日生まれでアルゼンチン北部の街ロザリオにて、実業家の父と政治家の娘である母との間に経済的に満ち足りた暮らしをしていた。そんな環境の中でゲバラは何不自由なく暮らしていたかにみえたが、ゲバラは病弱で2歳の頃に喘息性気管支炎にかかる。頻繁に起こる発作のために学校も満足に通えなかったゲバラは教育熱心な母親に勉強を教わり、家にあった3000冊を超える蔵書を次々と読破した。19歳でアルゼンチンの最高学府の国立ブエノスアイレス大学医学部に進学。自分と同じ様に病気で苦しむ人を救おうと医師を目指したのだった。

チェ・ゲバラ

ところがゲバラは将来を約束されたエリート人生に迷いを感じるようになる。23歳の時のこの頃、日記にこう書き残している。「僕は薬学研究所にも、病院にも、試験にもうんざりしていた」。退屈な日常にゲバラの視線はどこまでも続いている冒険の大空へと向けられていた。

 

チェ・ゲバラ、モーターサイクル・ダイヤリーズ

ゲバラの同級生の兄で生化学者の友人アルベルト・グラナードとともにラテンアメリカの旅に出た。「この旅の大まかな方針 それは「行き当たりばったり」だ」。1951年1月4日1939年式ノートン500のオンボロバイク「ポデローサ(poderoso)2号」に僅かな資金でブエノスアイレスを出発する。ゲバラは初めての貧乏旅行で、これまで生きてきた環境とは全くの別世界を体感する。旅を始めて2ヶ月、チリである民家に立ち寄った時のこと。ゲバラは貧しい人々が住む地区で喘息患者を診察した。「この哀れなお年寄りは同情を誘うような状態にあって 濃厚な汗と汚い足の臭いが鼻をつき、この家で唯一の装飾品であるソファからホコリが舞う中で 息をしていた。」自分と同じ病気に苦しむ人、でもこの人は自分と違い貧しさのせいで薬を買うこともできない。ゲバラが目にしたのはラテンアメリカを覆う貧困という現実だった。ゲバラが旅した1950年代当時、ラテンアメリカ諸国では貧富の差が大きな問題となっていた。大地主や政治家といった一部の人だけが贅沢をしていて国民の殆どは恐ろしく安い賃金で、過酷な労働を強いられていたのだ。ゲバラは次第にこうした不平等な世界であえぐ人々に心を寄せていく。

チェ・ゲバラ、モーターサイクル・ダイヤリーズ

2004年公開の映画「モーターサイクル・ダイアリーズ」の中でもこの一回目の貧乏旅行で南米の貧困層を目の当たりにしたゲバラとアルベルトの心境の変化が、描かれている。

 

アルベルト・グラナード、モーターサイクル・ダイアリーズ

1960年にアルベルト・グラナードはゲバラから招待され、初めてキューバを訪れた。1年後、彼は家族を連れてキューバに移り、ハバナ大学の医学部で生化学の教授となった。同年には、基礎・予防医学研究所の創設者のひとりにもなっている。1962年、グラナードは同僚たちとともにサンチャゴ大学にキューバで2番目の医学部を創設し、1970年から1974年まで、上級教授として在職した。ゲバラの意志を受け継いでサンティアゴ医学校(Escuela de Medicina de Santiago de Cuba)を創設した人物である。

大学卒業後2回目の旅~ボリビア、グアテマラ、そしてメキシコへ

ゲバラは25歳で大学を卒業すると、1953年7月に2回目の旅へ。今度は世の中の貧困をどう解決すればいいか、その方法を探る旅だった。最初に訪れたのはボリビア。当時のボリビアは南米の中でも特に貧しい国。しかし、ゲバラが目を見張る事件が起きていた。革命である。

MNR(民族革命運動党)が中心となって鉱山労働者や国家警察部隊と結託してラパスにて武装蜂起し貧困に苦しむ民衆が武器を持って立ち上がり政治権力を奪い取るクーデターを決行。平等な社会を作るため戦っている最中だった。

「1953年7月24日付けの父への手紙」より「僕は激動の時代を迎えたボリビアに とても興味を持っています でもこの国では 他人が命を落としても関心を持たず 自分とは関係ないという態度を取る人が大勢います 傍観者である僕も その同類に過ぎません」

1953年12月、ゲバラが次に目指したのがグアテマラ。ここでは革命が更に本格的に進んでいた。1950年グアテマラでは、労働者寄りのアルベンス大統領の政権が発足。画期的な政策の農地改革を進めていた。それまでグアテマラの国土の70%を大地主(人口の2%)が所有、独占していた。その為、農業の利益の殆どは大地主のものとなり、農民は貧しいままだった。農地改革ではこうした大地主の土地を政府が安く買い取り、農民に公平に分配し利益が得られるようにしたのだ。「1954年1月15日付け 家族への手紙」より「ボリビアもおもしろい国でしたが、グアテマラはそれより遥かにおもしろいです。ここでは、自分が興味を持っていることで真面目に働ける可能性があります。しばらく、ここに滞在してみるつもりです。」しかし、突然に理想は打ち砕かれた。

改革を進めるアルベンス政権を打倒しようと、隣の国(ホンジュラス、エルサルバドル)から軍事攻撃が始まったのだ。その背後にいたのはアメリカ合衆国。この当時アメリカの大企業がグアテマラをはじめ、中米やカリブ海諸国の多くの土地を所有していた。グアテマラの農地改革によって、

大損害を被ったアメリカは改革派の政権であるグアテマラ政権を倒そうと動いたのだった。グアテマラに理想を見つけ、滞在すること半年近く、ゲバラはもう傍観者ではいられなかった。「叔母への手紙」より「僕は銃を取るつもりです。正義を勝ち取るための武装です。アメリカ人に、他人の家に土足で勝手には入れないことを、分からせてやるために戦います。」しかし、大国アメリカ及びCIAが後押しする攻撃「PBSUCCESS作戦」に対し1954年6月27日にアルベンス大統領は国外へ逃亡。

改革派政権は崩壊する。外国からの旅人にすぎないゲバラは、国外脱出するしかなかった。だがゲバラは、アルゼンチンには帰ろうとはしなかった。

フィデル・カストロとの出会い

チェ・ゲバラ、フィデル・カストロ

1954年9月、向かったのはメキシコ。そこはラテンアメリカ各地から革命を志す物や亡命者が集まる地だった。視線の先にある何かに向けゲバラは一歩づつ歩み始めていた。


中央アメリカの東側、カリブ海の島国キューバ共和国。面積は日本の本州の半分程。温暖な気候のもと、白人系と黒人系をはじめ、多様な人々が集う国。この国の至るところにあの有名な、髭を生やした肖像写真。ゲバラは28歳の時、この国に上陸。やがて時の独裁政権との戦い、キューバ革命を成功に導き英雄として今でも尊敬を集めている。アルゼンチンの医師ゲバラは、どのようにしてキューバの英雄となったのだろうか。

当時、ゲバラは27歳。グアテマラからメキシコに移動したものの大きな目標も持てず、日銭を稼いで暮らす日々。この頃、メキシコで知り合った最初の妻となるペルー人のイルダ・ガデアがきっかけとなり、キューバからの亡命中だったM26革命軍のメンバーと出会うことになる。

その中心人物だったフィデル・カストロ(当時29歳)は第17代大統領のフルヘンシオ・バティスタ率いるキューバ政府に抵抗し、革命を目指していた組織M26の若きリーダーだった。当時キューバでは、経済を支えるサトウキビの輸出が大きな問題となっていた。その利益の殆どを地主とアメリカ合衆国の企業が利益を独占していたのだ。綺羅びやかな暮らしをするごく僅かな富裕層。彼らに搾取され、貧しさに苦しむ貧困層。国内には不満が渦巻き、この状態を変えようと革命の気運が高まりつつあった。カストロはキューバの裕福な階層出身の弁護士。しかし彼が志したのは、貧しい人達を救済することだった。

M26-7、7月26日運動、フィデル・カストロ

言論だけではこの国は変わらないと察したカストロは1953年7月、26歳の時に武器を取り若者たちを率いて軍の兵舎のモンカダ兵営を襲撃して武装蜂起。攻撃者の80人以上が死にカストロは逮捕され、カトリック司教の仲裁で死刑は免れたが、懲役15年が宣告され投獄された。1955年5月に恩赦によって釈放され、2カ月後にメキシコに亡命して活動を続けた。メキシコ亡命時代にはバティスタの意向を受けたメキシコ警察によって逮捕されたが、フィデルを見込んだメキシコ革命の大成者だった元大統領ラサロ・カルデナスの歎願によって釈放された。

戦いには敗れメキシコに亡命したものの、キューバの民衆にとってカストロは革命の期待を担う希望の星であった。1955年7月、カストロは知り合ったばかりのゲバラに熱く語った。

「キューバをアメリカ人どもの侵略と搾取と抑圧から解放するには、武器を取って闘う以外、道はない!」人々を貧困から救う熱意に燃え、自信と大胆さに満ちたカストロ。その姿に打たれ共に闘うことを伝えるゲバラ。キューバにゆかりのないゲバラにカストロは訪ねた。「君が死んだ時は、誰に連絡すればいいんだ?」ゲバラは答えた「母親に」それは、貧困をなくす為の戦いに命を賭けるという決意の言葉だった。

M26再び革命を成し遂げるためにキューバへ

チェ・ゲバラ、フィデル・カストロ

1956年11月25日、一隻の小さなヨット(グランマ号)がメキシコからキューバへと出航した。そこにはカストロが率いる82人の兵士が乗り込みゲバラも軍医として参加していた。

目指すは首都ハバナの反対側シエラ・マエストラ。ここで現地の同志と合流し、革命の狼煙を揚げる計画だった。12月2日にキューバ上陸。しかし、予想外のキューバ政府軍の待ち伏せ。猛攻撃を受け、カストロ達革命軍は散り散りになってしまう。誰もが荷物を捨て身軽になって逃げるしかない状況で、ゲバラは人生の選択を迫られた。「目の前には医薬品が詰まった背のうと、一箱の弾薬が転がっていた。両方背負うには重すぎる。私は医者なのか、革命の戦士なのか。私は弾薬を拾い上げ、サトウキビ畑へと走った。」ゲバラは医師ではなく戦士の道を選んだのだ。シエラ・マエストラの山中に逃げ込み生き残った革命兵士はわずか16人。作戦は明らかに失敗だった。この時、カストロが発した言葉に、ゲバラは耳を疑った。「大丈夫 我々は勝てる!」

医者なのか、革命の戦士なのか

チェ・ゲバラ

首都ハバナにあるキューバ革命博物館。ここに追い詰められた革命軍が形成を逆転する鍵となったものが展示されている。ゲバラが戦場で使った医療器具。歯を抜く抜歯器具、手術で使う鉗子、そしてピンセット。医師ではなく背戦士を選んだゲバラ。しかし、医療器具を再び手にすることが、戦いの行方を大きく変えてゆくことになる。カストロたちを殲滅しようとシエラ・マエストラに迫り来る政府軍2万人。

山中に潜みゲリラ戦で迎え打つにあたり、カストロはゲバラに意外な事を命令する。「戦いで負傷した兵士は、たとえ敵であっても傷の手当をして釈放せよ」。ゲバラは反対する。「数の限られた貴重な医薬品を、政府軍兵士を助けるために使えば、革命軍の不利になる」と。しかし、やがてカストロの命令が正しかったことが証明されていく。戦いの中にあっても人の命を救おうとする革命軍の姿勢に周辺住民からの支援が集まり始めた。 新たに農民から革命軍に加わったハリー・ビジェガスさんはこう語る。「カストロとゲバラは病人の面倒をみるようなとにかく人の役に立つこと、人として正しいことをやりながら戦っていました。「彼らなら信じられる」そう思いました。それで、私のように闘いに参加したり、参加しなくても支援するように皆なっていったんです。」ゲバラはカストロの意図を理解した。戦いの最中、病院がない村でゲバラは診療所を設営。無償で貧しい農民たちの治療を始めた。更に、村々の子供や革命軍に参加した若者たちに教育を施した。ゲバラは困っている人を決して見捨てない。そんな姿をカストロは強く印象に留めている。

「私たち革命軍が拠点を離れる際に、チェは動けない負傷者のためにその場に残ってくれました。彼は政府軍が迫る中、ギリギリまで負傷者を手当してその生命を救い、後から隊列に合流したのです。」

そしてキューバ解放へ

キューバ革命

人々の共感を集めた革命軍は、上陸直後の12人から半年後には、400人に増えていったのだった。1958年12月29日首都ハバナを目指す為、ゲバラは300人の兵を率いてキューバ中心部サンタクララに進撃。迎え討つ政府軍は6000人。

ゲバラは物資と兵士を乗せた政府軍の装甲列車を転覆させることに成功。政府軍を混乱に陥れ、激戦の末サンタクララを掌握。1959年1月1日、革命軍の勢いを見た独裁政権のバティスタ大統領が国外へ逃亡。民衆の大歓声に迎えられ、

1959年1月3日革命軍はついに、首都ハバナに到達した。カストロ32歳、ゲバラ30歳、2人が夢見たキューバ解放。戦士である一方で、命を救う医者でもあったゲバラ。そうした彼の姿勢が革命の成功に大きな影響を与えたのだった。彼の著書「ゲリラ戦争」には闘いに勝つ方法としてこんなゲバラの言葉があります。「ゲリラ戦士は道徳的規範でなくてはならない」これは恐らく、ヒポクラテスの誓いというものがあり医療論理の基礎で、誰も見ていない医療現場でも道徳的に救命するという多くの医師が卒業する時に誓うもの。ゲバラも医学生の時にこれをしたのではないかと言われている。

The Hippocratic oath(ヒポクラテスの誓い)

 

ヒポクラテスの誓いヒポクラテスの誓い

医の神アポロン、アスクレーピオス、ヒギエイア、パナケイア、及び全ての神々よ。私自身の能力と判断に従って、この誓約を守ることを誓う

この医術を教えてくれた師を実の親のように敬い、自らの財産を分け与えて、必要ある時には助ける。

師の子孫を自身の兄弟のように見て、彼らが学ばんとすれば報酬なしにこの術を教える。

著作や講義その他あらゆる方法で、医術の知識を師や自らの息子、また、医の規則に則って誓約で結ばれている弟子達に分かち与え、それ以外の誰にも与えない。

自身の能力と判断に従って、患者に利すると思う治療法を選択し、害と知る治療法を決して選択しない。

依頼されても人を殺す薬を与えない。

同様に婦人を流産させる道具を与えない。

生涯を純粋と神聖を貫き、医術を行う。

どんな家を訪れる時もそこの自由人と奴隷の相違を問わず、不正を犯すことなく、医術を行う。

医に関するか否かに関わらず、他人の生活についての秘密を遵守する。

この誓いを守り続ける限り、私は人生と医術とを享受し、全ての人から尊敬されるであろう!
しかし、万が一、この誓いを破る時、私はその反対の運命を賜るだろう。

首相フィデル・カストロの下での新しい国づくり

チェ・ゲバラ、フィデル・カストロ

カストロと共にキューバ革命を成し遂げたゲバラですがその6年後、盟友カストロと別れる決意をします。お互いに唯一無二の存在だったのになぜゲバラは決意したのか。別れの手紙から1959年2月、首相に就任したカストロの下でキューバの新しい国づくりが始まった。

ゲバラもアルゼンチンには戻らず、引き続きカストロを補佐する道を選んだ。これはキューバの市民権証明書。アルゼンチン人でありながら国を超えて戦ったゲバラには、キューバ共和国市民権が与えられた。喜びのサイン、エルネスト・ゲバラ。ゲバラは31歳で国立銀行総裁、翌年には工業大臣に就任。目指すはアメリカ合衆国の影響を脱した、キューバ自らの産業、経済を打ち立てること。農業では農地改革に着手。多くの土地を専有するアメリカ企業を追い出し国有化。それを農民に均等に分配することで貧困からの脱却を図った。また、工業の近代化を目指して各地を視察。経済発展への計画を立てていった。

「新しい人間」という革命を成し遂げて悟った理想像

 

一方こちらは、ゲバラの休日。ある時は建設現場、そしてある時は小麦工場。ゲバラは大臣の衣服を脱ぎ捨て、1ボランティアとして働いた。サトウキビ畑では、キューバの人々と一緒に汗を流すことを生きがいにしていたのだった。ゲバラの元側近ミゲール・アレハンドロさんの話しでは「ゲバラは毎日休みなく、朝から深夜まで仕事をして時間があれば勉強にあてる、といった生活をしていました。自分が出来るんだから、みんなも出来るはずだよ、頑張ろう!ということを態度で示してくれていたんだと思います。」ゲバラは目指すべき生き方をこう表現した。「新しい人間」それは、「自分のためではなく、他人のために自ら進んで働く生き方」。一人ひとりがそういう「新しい人間」に変われば、苦しみで覆われている世界を自分たちの手で変えることができる。この頃、ゲバラは革命戦争で知り合った恋人、アレイダと結婚して4人の子の父親となる。キューバ国民の為、そして家族の為に生きる日々。しかし、その平穏な生活は束の間に過ぎなかった。

冷戦に巻き込まれていくキューバ共和国

1962年10月のキューバ危機である。当時は東西冷戦の真っ只中で、アメリカを中心とする資本主義陣営とソビエトを中心とする社会主義陣営が世界を二分して対立していた。

アメリカ本土まで僅か140kmというキューバもその争いに巻き込まれた。アメリカと反目するカストロはソビエトに接近、キューバ国内にアメリカを直接攻撃ができる核ミサイルが配備された。これに対してアメリカはキューバ沖に軍艦を派遣して、米ソが全面核戦争寸前まで至り世界中に緊張が走った。この事件でキューバは、世界の注目を大きく集めるようになる。ゲバラは様々な国際会議に出席して、強大な経済力、軍事力で他の国を従わせようとする大国アメリカを批判する。

祖国か死か 貧困の上に成り立つ先進国の生活水準

 

1964年12月、国連総会でのゲバラのスピーチ。「合衆国は、キューバの査察を国連に要請した。我々はこれを断固拒否する。国連事務総長も理解してくれた。にも関わらず、なぜ我が国の上空を偵察機が飛び回っているのだ。祖国か死か!」。公然とアメリカを批判し、その矛先はアメリカだけに留まらなかった。1965年2月、アジア・アフリカ会議ではアジア・アフリカに貧困を押し付けている経済大国へも批判を始めた。「欧米列強諸国の高い生活水準は、我々途上国の貧困の上で成り立っているのだ。もし途上国が惨めになることによって社会主義国家が高い水準を保っているとすれば、それは帝国主義的搾取の共犯者と見られても仕方ない」。アジア・アフリカの代表達から賞賛されるゲバラ。しかし、彼が急談した途上国から搾取する社会主義国家とは?暗にソビエトを指して批判。ソビエト側に就くことでキューバを守ろうとしているカストロ。この発言から20日後の1965年3月14日にゲバラがキューバに帰国。

すれ違い、そして別れ

 

一行を笑顔で出迎えるカストロだが、アメリカとの友好関係を保てないと悟り、ゲバラが帝国主義的搾取の共犯者とみなしていたソビエト連邦へ接近した事が一因で、7日後にゲバラは姿を消し新たな革命の地を目指した。「4つの白い壁に囲まれるのはもう飽きた」と言って笑ったのが最後に聞いた言葉だったという。ゲバラは大臣の地位もキューバの市民権も放棄して新たな革命の地へと旅立った。世界の苦しんでいる人のために働く「新しい人間」となるために。カストロのもとにはゲバラからのメッセージが残されていた。

別れの手紙

Carta de despedida a Fidel Castro
[marzo 1965] Habana «Año de la agricultura»
Fidel:

Me recuerdo en esta hora de muchas cosas, de cuando te conocí en casa de María Antonia, de cuando me propusiste venir, de toda la tensión de los preparativos. Un día pasaron preguntando a quién se debía avisar en caso de muerte y la posibilidad real del hecho nos golpeó a todos. Después supimos que era cierto, que en una revolución se triunfa o se muere (si es verdadera). Muchos compañeros quedaron a lo largo del camino hacia la victoria.
Hoy todo tiene un tono menos dramático porque somos más maduros, pero el hecho se repite. Siento que he cumplido la parte de mi deber que me ataba a la Revolución Cubana en su territorio y me despido de ti, de los compañeros, de tu pueblo que ya es mío.
Hago formal renuncia de mis cargos en la dirección del Partido, de mi puesto de Ministro, de mi grado de Comandante, de mi condición de Cubano. Nada legal me ata a Cuba, sólo lazos de otra clase que no se pueden romper como los nombramientos.
Haciendo un recuerdo de mi vida pasada creo haber trabajado con suficiente honradez y dedicación para consolidar el triunfo revolucionario. Mi única falta de alguna gravedad es no haber confiado más en tí desde los primeros momentos de la Sierra Maestra y no haber comprendido con suficiente claridad tus cualidades de conductor y de revolucionario. He vivido días magníficos y sentí a tu lado el orgullo de pertenecer a nuestro pueblo en los días luminosos y tristes de la crisis del Caribe. Pocas veces brilló más alto un estadista que en esos días, me enorgullezco también de haberte seguido sin vacilaciones, identificado con tu manera de pensar y de ver y apreciar los peligros y los principios.
Otras tierras del mundo reclaman el concurso de mis modestos esfuerzos. Yo puedo hacer lo que te está negado por tu responsabilidad al frente de Cuba y llegó la hora de separarnos.
Sépase que lo hago con una mezcla de alegría y de dolor, aquí dejo lo más puro de mis esperanzas de constructor y lo más querido entre mis seres queridos… y dejo un pueblo que me admitió como un hijo; eso lacera una parte de mi espíritu. En los nuevos campos de batalla llevaré la fe que me inculcaste, el espíritu revolucionario de mi pueblo, la sensación de cumplir con el más sagrado de los deberes: luchar contra el imperialismo donde quiera que esté, esto reconforta y cura con creces cualquier desgarradura.
Digo una vez más que libero a Cuba de cualquier responsabilidad, salvo la que emane de su ejemplo. Que si me llega la hora definitiva bajo otros cielos, mi último pensamiento será para este pueblo y especialmente para tí. Que te doy las gracias por tus enseñanzas y tu ejemplo al que trataré de ser fiel hasta las últimas consecuencias de mis actos. Que he estado identificado siempre con la política exterior de nuestra Revolución y lo sigo estando. Que en dondequiera que me pare sentiré la responsabilidad de ser revolucionario Cubano, y como tal actuaré. Que no dejo a mis hijos y mi mujer nada material y no me apena: me alegra que así sea. Que no pido nada para ellos pues el Estado les dará lo suficiente para vivir y educarse.
Tendría muchas cosas que decirte a ti y a nuestro pueblo, pero siento que son innecesarias, las palabras no pueden expresar lo que yo quisiera, y no vale la pena emborronar cuartillas.
Hasta la victoria siempre. ¡Patria o Muerte!
Te abraza con todo fervor revolucionario

Che


「別れの手紙」 和訳文 (三好徹氏訳)

フィデル
今この瞬間に 僕は多くのことを思い出している マリア・アントニアの家で
初めて君に逢った時のこと 僕に一緒に来ないかって誘ってくれた時のこと
そして準備を進めている時のあの緊張の全てを
ある日 死んだ場合には、誰に報せたらよいかと訊かれたことがあった
そして そういう現実の可能性に 僕らはみな衝ちのめされてしまった
その後僕らは それがあり得たことで 革命においてはそれが真の革命であれば

人は勝利を得るか 死ぬかだということを学んだのだ

多くの同志が勝利にいたる道程で倒れてしまった。今日ではあらゆる事がさほど
劇的には感じられないが それは僕らが成熟したからで 現実は繰返されているのだ
僕はキューバ革命において その地で僕に課せられた義務の一部を果たしたと思う
で君に 同志に そして君の 今は僕のものでもある国民に別れを告げる
党指導部における地位 大臣の地位 少佐の位階 キューバの市民権を
僕は公式に放棄する。法的に僕をキューバに結びつけるものは もう何もない
といっても 辞令を出せばできるようには あっさりと断ち切ることのできない種類の
絆が残るが
過去を省みると 革命の勝利を不動のものとするために
僕は誠実かつ 献身的にこれまで働いてきたと 信じている
僕になんらかの誤りがあったとするなら それはシエラ・マエストラの初期のころ
君にに十分な信頼を置かなかったことと 指導者ならびに革命家としての君の
資質をさほど早く理解しなかったこと
僕は素晴らしい日々を生きてきた そしてカリブの輝かしくも苦しい日々に
君の傍らにあって 我が国の国民であることを誇らしく感じたものだ
あの頃の君よりも優れた政治家なんていないだろう
そしてまた 僕は君に躊躇なく従い 君の考え方を身につけ 僕らが
置かれていた 危機や原則を理解し 評価したことを誇りにしている
今世界のほかの国が 僕のささやかな力添えを望んでいる
君はキューバの責任者だからできないが 僕にはそれができる
別れの時がきてしまったのだ
喜びと悲しみの入り混じった気持ちで こんなことをするのだ と察してほしい
僕はこの地に 建設者としての希望のもっとも純粋なもの そして僕がもっとも
愛している人々を残して行く……また僕を息子のように受け入れた国民からも去って行く
それは僕をとっても悲しい気持ちにするのだが 僕は
新しい戦場に 君が教えてくれた信念、我が国民の革命精神
もっとも神聖な義務を遂行するという気持ちを携えて行こう 帝国主義の
あるところならどこでも戦うために だ。
それがぼくを慰め、深い心の傷を癒してくれる。
繰りかえすが、これまで模範であったことから生ずる責任を除いて、キューバに関する
一切の責任から解放されたことをいいたい。もし異国の空の下で最期の時を迎えるような
ことがあれば、ぼくの最後の思いは、この国の人びとに、とくにきみに馳せるだろう。
きみのあたえてくれた教えやお手本に感謝したい。
そしてぼくの行動の最後まで、それに忠実であるように努力するつもりだ。
ぼくは、わが革命の外交政策にいつだって自分を同化してきたし、これからも
そうであり続けるだろう。
どこにいようとも、僕はキューバの革命家たる責任を自覚するだろう。
そのように行動するだろう。
僕は妻子には何も残さなかった。それを後悔するどころか、むしろ満足している。
国家が彼らの必要とするものや 教育をあたえてくれるだろうから、
僕が家族のために 求めることは 何もない。
君や我が国民に言いたいことは尽きないのだが、その必要はないようだ。
言葉は僕の言わんとすることを表現できないし、これ以上は紙を汚すに値しない。
永遠の勝利の日まで、祖国か死か。
ありったけの革命的情熱をこめて君を抱きしめるよ。
che

チェ・ゲバラ

1965年にゲバラがキューバを離れたことが発表された際に、、キューバのシンガーソングライターのカルロス・プエブラ(Carlos Puebla)(1917~1989)が1965年に発表した代表作「Hasta Siempre Comandante」はキューバ革命への功労に感謝する目的で作曲したものだが、その美しいメロディおよび韻によりキューバ国内外に広く知られることになった。発表から40年以上経過した現在でも、シルビオ・ロドリゲス (Silvio Rodríguez)やブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ(Buena Vista Social Club)、またナタリー・カルドン (Nathalie Cardone)などにより幅広く歌われている。なお、2009年の世界社会フォーラムでは、エクアドル共和国の第55代大統領(2007~)ラファエル・コレア(Rafael Vicente Correa Delgado)、パラグアイ共和国第37代大統領(2008 – 2012)で変革のための愛国同盟リーダーのフェルナンド・ルゴ(Fernando Armindo Lugo Méndez) 、ベネズエラ共和国第53代大統領(1999~2013)のウゴ・チャベス(Hugo Rafael Chávez Frías)およびボリビア多民族国第80代大統領(2006~)のエボ・モラレス(Juan Evo Morales Aima)の各大統領が熱唱している。

“Hasta Siempre Comandante” Carlos Puebla

Aprendimos a quererte
私たちはあなたを愛することを学んだ
Desde la histórica altura
歴史的な高みから
Donde el sol de tu bravura
そこではあなたの勇敢さという日差しが
Le puso cerco a la muerte
死を包囲した
[Estribillo]
[コーラス]
Aquí se queda la clara
ここでは明らかになっている
La entrañable transparencia
あなたの存在の
De tu querida presencia
親愛なる透明性が
Comandante Che Guevara
チェ・ゲバラ司令官
Tu mano gloriosa y fuerte
栄光に満ちた強いあなたの手が
Sobre la historia dispara
歴史上で火を吹く
Cuando todo Santa Clara
サンタ・クララの街全体が
Se despierta para verte.
目を覚ましてあなたに会うときに
[Estribillo]
[コーラス]

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Vienes quemando la brisa
風を燃やしながらあなたは来ている
Con soles de primavera
春の日差しとともに
Para plantar la bandera
旗を立てるために
Con la luz de tu sonrisa
あなたの微笑みの光とともに
[Estribillo]
[コーラス]
Tu amor revolucionario
あなたの革命への愛が
Te conduce a nueva empresa
新しい試みへとあなたを導く
Donde esperan la firmeza
そこでは自由を目指すあなたの腕の
De tu brazo libertario
力強さが待ち望まれている
[Estribillo]
[コーラス]
Seguiremos adelante
私たちは前に進み続ける
Como junto a ti seguimos
これまであなたと一緒に進んできたように
Y con Fidel te decimos
そしてフィデルとともに私たちは言う
Hasta siempre Comandante
ごきげんよう、司令官
[Estribillo]
[コーラス]

新たなる革命の地へ

1965年4月、ゲバラ36歳、キューバを離れゲバラが向かったのは、コンゴ民主共和国(アフリカ中央部の国)当時、激しい内戦の最中にあった。コンゴは5年前に独立したばかりの新しい国だった。しかし、部族間の対立に乗じて元宗主国のベルギーをはじめ、ソビエト、アメリカが次々に介入してくる。事態は泥沼化していく。ゲバラが味方したのは、民族を開放して平等な社会を目指すと志を掲げる革命軍、その顧問としてゲリラ兵士を指導するとともに自らも戦いに参加したのだった。しかし、現地の革命軍の兵士と馴染むことができなかった。

志の違いと温度差

 

「コンゴ戦記1965」より当時の日記にこう書き留めている。「コンゴ革命軍の性質は寄生虫のようなものだった 彼らは働かず 訓練もせず まともに戦いもしない そして住民に対し 食料供出や労役を強要していたのだ」ゲバラの思想とまるで逆の姿勢の兵士たち。他人のために進んで働くという理想は、敵、味方の利害関係が複雑に入り乱れるコンゴでは通用しなかった。ゲバラはコンゴ人にとって仲間ではなく、外国からやってきたよそ者に過ぎなかった。認めたくない現実がそこにあった。

失意の中ゲバラはわずか半年でコンゴを去る。コンゴへ同行したキューバ革命兵士ハリー・ビジェガスの話しによると「ゲバラは 失敗の責任は自分にあると落ち込んでいた がっくりとうなだれて 側に寄るのもはばかれるほどだった」「私は一体誰だったのか…」日記に綴られたこの言葉がゲバラの失意を物語っている。

英雄ゲバラの最期の別れ

チェ・ゲバラ

1966年7月、ゲバラは1年3ヶ月ぶりに突然、キューバに帰国。国際社会から危険人物とみなされていたゲバラの帰国は、国民には極秘とされた。偽造パスポートの写真には特徴のある風貌をすべて隠した変装。革命軍の英雄ゲバラの面影はそこにはなかった。ゲバラの娘アレイダ・ゲバラさんによると、当時5歳だった彼女は父親との対面をこう語る。

「顔が違うし父の友達だと紹介されたので、父だなんて夢にも思いませんでした。大きくなってから父が帰って来たことは、私たちに何かを伝えたかったからじゃないかと考えるようになりました。そう思うと、とても幸せな感じがします。父の愛情が感じられるからです。」ゲバラが子どもたちに残した最後の手紙「世界の何処かで 誰かが不正な目にあっている時 痛みを感じることが出来るようになりなさい これが革命家において 最も美しい資質です 子どもたちよ いつでもお前たちに会いたいと思っている お父さんより」

あの時の、革命の鼓動をもう一度!

 

4ヶ月後の1966年11月、北ベトナム訪問後にキューバの小さな秘密基地で綿密に練られた計画を元にしてゲバラは新たな革命の地ボリビアへ入国。そこは25歳の2回目のラテンアメリカへの貧乏旅行で初めて革命の鼓動に触れ、見て見ぬふりは出来ないと目覚めた地だった。

すでにボリビアに派遣され地下工作員として下準備を整えていたタニア(ラウラ・グチエレス・バウエル)の手筈で、ゲバラは現地の仲間と共に民衆を抑圧する軍事独裁政権に戦いを挑んだ。しかし、アメリカの支援を受けて、ゲバラのゲリラ戦法を吸収して世界最弱と言われたボリビア政府軍の進化していく戦略の前に苦戦。

ボリビアの民衆も最後までゲバラに味方することはなかった。信頼を置いていた5人の部下とタニアを失い追い詰められて1967年10月8日、1年近い戦いの後、ゲバラはついに政府軍に捕らえられた。そして、翌日銃殺。39歳の時だった。

「撃て、恐れるな!俺はただの男にすぎない!」

チェ・ゲバラ

ゲバラの遺体は見せしめとして地元の住民たちに公開された。その目は閉じられること無く、どこまでも広がる空へと向けられていた。ゲバラの最期の言葉は、自分に銃を向ける若い兵士に発したものだと言われている。怯える若者に、ゲバラは叫んだ。「撃て、恐れるな!俺はただの男にすぎない」

フィデル・カストロフィデル・カストロフィデル・カストロチェ・ゲバラ

1997年10月、ボリビア政府によって隠されてきたゲバラの遺骨がキューバへと渡された。ゲバラ30年ぶりの帰還。その式典でカストロはこう讃えた。「チェの思想が実現していたら 世界は違ったものになっていただろう 戦士は死ぬ だが 思想は死なない」その詩から50年近くも受け継がれる思想。ゲバラは生前、若者たちに訴えた。「もし 私達が空想主義者だと言われるならば 救いがたい理想主義者だと言われるならば 出来もしない事を考えていると言われるならば 何千回でも答えよう [私たちには、できる]と」 

ゲバラの名言

我々は、二つのべトナム、そして、三つのべトナム、さらに、数多くのべトナムをつくるべきであると主張すべきである。

グラナダ最後のカリフの母がその息子に言った。”お前が守ろうとしなかった都が亡ぶと言って、何も泣くことはないのだ”

バカらしいと思うかもしれないが、真の革命家は偉大なる愛によって導かれる。人間への愛、正義への愛、真実への愛。愛の無い真の革命家など想像出来ない。

私のことを冒険家というのなら、たしかにそうだ。しかし、私は違うタイプの冒険家だ。自分の真理を証明するためなら、命も賭ける冒険家だ。

祖国か、死か!

我々にとって社会主義の確かな定義は、”人間の人間による搾取の撤廃”以外にない。

一人の人間の命は、地球上で一番豊かな人間の全財産の百万倍の価値がある。隣人の為に尽くす誇りは、高所得を得るより遥かに大切だ。蓄財出来る全ての黄金よりも遥かに決定的でいつまでも続くのは、人民達の感謝の念だ。

人間はダイヤモンドだ。ダイヤモンドを磨くことが出来るのはダイヤモンドしかない。人間を磨くにも、人間とコミュニケーションを取るしかないんだよ。

国民の英雄たるもの、国民から遠く離れていてはいけない。高い台座に上って、国民の生活と無縁なところに収まるべきでない。

指導者とは、人が自分と同じところまで追いつけるように誘導するものだ。ただ言葉で強いるのでなく、後ろにいる人たちを力づけて、自分のレベルまで引き上げようとするのだ。

国民に意思を伝えるためには、国民の一人となって感じなければならない。国民の欲するもの、要求するもの、感じるものを知らなければならない。

酒は飲まない。タバコを吸う。女を好きにならない位なら、男を辞める。だからと言って、あるいはどんな理由であっても、革命家としての任務を全う出来ないのなら、僕は革命家を辞める。

僕を導くものは、真実への情熱だけだ。あらゆる問題について、僕はこの点から考える。

世界のどこかで誰かが被っている不正を、心の底から深く悲しむ事の出来る人間になりなさい。それこそが革命家としての、一番美しい資質なのだから。

今世界の他の国が、僕のささやかな力添えを望んでいる。君はキューバの責任者だから出来ないが、僕にはそれが出来る。別れの時が来てしまったのだ。喜びと悲しみの入り混じった気持ちで、こんなことをするのだ、と察して欲しい。僕はこの地に、建設者としての希望の最も純粋なもの、そして僕が最も愛している人々を残して行く……また僕を息子のように受け入れた国民からも去って行く、それは僕をとっても悲しい気持ちにするのだが。僕は、新しい戦場に、君が教えてくれた信念、我が国民の革命精神、最も神聖な義務を遂行するという気持ちを携えて行こう、帝国主義のあるところならどこでも戦うために、だ。

もし私達が空想家のようだと言われるならば、救い難い理想主義者だと言われるならば、出来もしない事を考えていると言われるならば、何千回でも答えよう、「そのとおりだが、我々にはできる!」。

私はキリストではないし、慈善事業家でもない。キリストとは正反対だ。正しいと信じるもののために、手に入る武器は何でも使って戦う。自分自身が十字架に磔になるよりは、敵を打ち負かそうと思うんだ。

どこで死に襲われようと、我々の戦いの雄叫びが誰かの耳に届き、我々の武器を取るために別の手が差し出され、他の人達が立ち上がるなら、喜んで死を受け入れよう!

最後まで見て頂きまして、どうもありがとうございました!
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